試写会に呼んでいただいた。@松竹試写室@東劇会館。
ゴンサロ・カルサーダ『ルイーサ』(アルゼンチン、スペイン、2008)
脚本コンテストで一番になったロシオ・アスアガの脚本を、映画の監督としては新人のカルサーダが撮ったフレッシュな一作。とはいえ、初老の女性の悲哀を描いて身につまされる。一方でところどころに笑いを織り込むので深刻になりすぎるわけでもない。つまりは手練れの作品という感じ。新人コンビにして手練れ。すごい。
夫と娘をいっぺんに亡くしたルイーサ(レオノール・マンソ)は、午前中は墓場の連絡係、午後は映画スターの家政婦として働いていた。早朝に出勤し、勤務先に葬られている夫と娘にバラの花を1輪ずつ手向けるのが日課。友は猫のティノだけ。そんなルイーサがティノに死なれて仕事に遅れた日、解雇を告げられ、女優も引退するからもう来なくていいと言われ、つまりは一度に3つの生活の糧を失ったという次第。
退職金も20ペソ50しかもらえず、猫の火葬代300ペソの持ち合わせすらない。銀行に行くときに初めて地下鉄に乗り、そこで多くの物乞いや物売り、ストリート・ミュージシャンらがいることを知り、自らも物売りや物乞いに身をやつしていく。
老後に不安を抱えるすべての現代人にとって、身につまされる辛い話。これを見ているわれわれ日本人は、さすがにストリート・ミュージシャンはこの十数年で常態と化したものの、地下鉄内の物売り物乞いなどほとんどいないので、この手段すら残されていないのかと、恐怖しながら見ることになるはず。ただし、上に書いたように、ところどころ笑いながらではあるけど。
ブエノスアイレスの美しい街並みと地下鉄がとにかく印象的(映像処理がうまいんだな)。ここの地下鉄(スブテSubteなんて変な略しかたをされるんだよな)、アルヘンティニスタたちが良く言うことには、東京の丸ノ内線車両が払い下げられているとのこと。残念ながら映画の中の地下鉄は黄色い車体で統一されていて、丸ノ内線らしき車両は見つけられなかった。
2008年の時点でいまだにダイヤル式の固定電話を使い、銀行の頭取名で何かの文書が来たから頭取に会わせろと窓口ですごみ、地下鉄の乗り方を知らないばかりか、エスカレータすらこわごわ乗るオールドファッションドなルイーサが、冒頭、起き抜けにぞうきんつきスリッパを履いてすり足で歩くずぼらさを見せているところなどが可愛らしい。ついに猫を葬ることになったルイーサの号泣も印象的だ。
帰りは地下鉄丸ノ内線に乗った。猫というグループの歌った「地下鉄に乗って」が耳もとで流れてきた。
2010年8月9日月曜日
2010年8月8日日曜日
心残り
昨日報告した『シルビアのいる街で』。間違いではなく、映画中、男が探していた女の名前はシルヴィーだ。シルビアSilviaはスペイン語名、シルヴィーSylvieはフランス語名。映画はスペインとフランスの共同資本、俳優も、主要登場人物の2人はそれぞれ、スペイン人とフランス人。だが、映画の中の重要なセリフはフランス語だ。舞台はフランス(ストラスブール)だ。だからシルビアでなくシルヴィーという名の女性を捜す話になる。
そもそもこの映画が観客を飽きさせないサービス精神はタイトルクレジットから明らかだ。最初、TVEなどのスペインの出資者を提示するときにはスペイン語で、フランスのそれを提示するときにはフランス語で提示している。言語が切り替わるのだ。そして、タイトル。En la ciudad de Silvia とスペイン語が出る。やがて"En la ciudad de" の部分がフランス語に変わる。Dans la ville de …
が、待てよ、前半部分の変化だけに気を取られて、名前が変化したかどうか、気づいていない。不覚だ。Silvia はSylvieに変わったのだろうか? i がy に変わるなど、けっこうな変化だと思うのだが、もっと大きな変化に気を取られて、気づかなかった。
ああ、悔しい。
どうしよう? これを確かめるためだけにもう一度観に行こうか? でもなあ、今日はさすがに行けない。明日は違う映画に行く。うーん……
なんのことはない。公式サイトを見たら、フランス語のタイトルが出ていた。
Dans la ville de Sylvia
……Sylvia?
SilviaでもSylvieでもない、Sylviaなのか! うーむ。これはまた、なかなか興味そそられる折衷案だ。
そもそもこの映画が観客を飽きさせないサービス精神はタイトルクレジットから明らかだ。最初、TVEなどのスペインの出資者を提示するときにはスペイン語で、フランスのそれを提示するときにはフランス語で提示している。言語が切り替わるのだ。そして、タイトル。En la ciudad de Silvia とスペイン語が出る。やがて"En la ciudad de" の部分がフランス語に変わる。Dans la ville de …
が、待てよ、前半部分の変化だけに気を取られて、名前が変化したかどうか、気づいていない。不覚だ。Silvia はSylvieに変わったのだろうか? i がy に変わるなど、けっこうな変化だと思うのだが、もっと大きな変化に気を取られて、気づかなかった。
ああ、悔しい。
どうしよう? これを確かめるためだけにもう一度観に行こうか? でもなあ、今日はさすがに行けない。明日は違う映画に行く。うーん……
なんのことはない。公式サイトを見たら、フランス語のタイトルが出ていた。
Dans la ville de Sylvia
……Sylvia?
SilviaでもSylvieでもない、Sylviaなのか! うーむ。これはまた、なかなか興味そそられる折衷案だ。
2010年8月7日土曜日
行列嫌いなぼくが列を作って観た
起きてすぐ思い立って、公開初日第1回上映にと、青山のシアター・イメージフォーラムに行ってきた。何かのBL映画の整理券待ちと一緒にされて、炎天下、並ぶ羽目になった。
ホセ・ルイス・ゲリン『シルビアのいる街で』(フランス、スペイン、2007)。傑作だ。
6年前にストラスブールのバー《飛行士たち》Les aviateursで出会ったシルヴィーという女性を捜してその街に逗留している男(グザヴィエ・ラフィット)が、彼女が入学したと言っていたコンセルヴァトワール前のカフェで彼女を捜し続けるという話。客の女たちをスケッチして過ごすうちに、それらしき女(ピラール・ロペス・デ・アヤーラ)を見つけ、後をつける。トラムに乗った彼女に話しかけると、人違いと発覚、その夜、思い出の《飛行士たち》で知り合った女性客と行きずりの関係を持った男は、翌日もいつものカフェで女たちの顔をスケッチして過ごす。
ただそれだけのストーリーだ。題材として短編映画に似つかわしい。これが短めとはいえ、かりにも85分の長編として作られるのだからすごい。要するに、ストーリーなど問題ではないのだ。セリフもほとんどなく、それなのにとてもはらはらドキドキさせられる映画だ。これだけの他愛ないストーリーを見せるその見せた方がすばらしいのだ。何と言ってもこの映画は主人公やわれわれ観客の視界を遮ることによってやきもきさせる作品だ。カフェにたむろする多くの女たちをスケッチするために眺める主人公の視界は、他の女に遮られる。焦点を当てた人物の手前にまったくピンぼけな他の人物が割り込むことによって、見たい相手をまっすぐ完全に見ることのできない隔靴掻痒の感覚が観客にも伝わる。あるいはカフェのウィンドウの向こう側は光と外の景色が映り込んでよく見えない。わずかに影がさし、ガラスが鏡の役割をすることをやめた瞬間に、店内に探していた女の姿が映る。しかし、一瞬目を離すと、また光が差し込んでウィンドウの向こうは見えなくなる。再び見えたときには彼女はいない。こういう風に人物や観客の視界を欺き、「やきもき」させる、実につれなくて楽しい映画だ。
視界だけではない、音もわれわれをどぎまぎさせる。街の喧噪、というか、サウンドスケープとでも呼ぶべきものの処理が繊細で、観客を飽きさせない。靴音や車輪の音、フランス語のみならず時にスペイン語やドイツ語、英語が飛び交う街の人々やカフェの客の話し声(ただし、字幕もなく、聞き取れるほどの大きさでないものも多い。つまり、発話内容は問題とされない。騒音、もしくはサウンドスケープとしての話し声)。そういったものをサラウンド・システムのステレオ装置をフルに利用してうまい具合に絶妙の場所からそれにふさわしいタイミングと大きさで聞かせる。音声およびポストプロダクションの勝利だ。男がシルヴィーだと勘違いした相手を見つけ、追い掛け、話しかけるまでの1時間近い、大半は沈黙の時間が、ぜんぜん苦痛でないのは、この音声処理のおかげだ。
たとえばこうした音声が、視界に見えるものとシンクロしながら、われわれを「はらはらドキドキ」させるのは、男が女を追っている最中、間にトラムが入り込む瞬間だ。少し離れて女を追う男の視線でカメラは回っている。そこにいきなり、トラムが視界を横切り、手前のスピーカーから大きめの車輪や車体の音が流れ、観客はびっくりする。トラムの窓の向こうの女は見えたり見えなかったり、幻のように見えたりで、目がくらむ。これが、10秒くらいのシークエンス。実に絶妙ではないか?
生半なデュアル・オーディオしか持たないのならば、これをDVDで家で見ようなどと考えず、サラウンド・システムを備えた映画館に観に行かなければならない。
ちなみに、大久保清朗が『キネマ旬報』8月下旬号に書いたレヴュー「あわいの官能」は、この映画のインスピレーションがどこから来ているかを示唆していて、実に刺激的。
ホセ・ルイス・ゲリン『シルビアのいる街で』(フランス、スペイン、2007)。傑作だ。
6年前にストラスブールのバー《飛行士たち》Les aviateursで出会ったシルヴィーという女性を捜してその街に逗留している男(グザヴィエ・ラフィット)が、彼女が入学したと言っていたコンセルヴァトワール前のカフェで彼女を捜し続けるという話。客の女たちをスケッチして過ごすうちに、それらしき女(ピラール・ロペス・デ・アヤーラ)を見つけ、後をつける。トラムに乗った彼女に話しかけると、人違いと発覚、その夜、思い出の《飛行士たち》で知り合った女性客と行きずりの関係を持った男は、翌日もいつものカフェで女たちの顔をスケッチして過ごす。
ただそれだけのストーリーだ。題材として短編映画に似つかわしい。これが短めとはいえ、かりにも85分の長編として作られるのだからすごい。要するに、ストーリーなど問題ではないのだ。セリフもほとんどなく、それなのにとてもはらはらドキドキさせられる映画だ。これだけの他愛ないストーリーを見せるその見せた方がすばらしいのだ。何と言ってもこの映画は主人公やわれわれ観客の視界を遮ることによってやきもきさせる作品だ。カフェにたむろする多くの女たちをスケッチするために眺める主人公の視界は、他の女に遮られる。焦点を当てた人物の手前にまったくピンぼけな他の人物が割り込むことによって、見たい相手をまっすぐ完全に見ることのできない隔靴掻痒の感覚が観客にも伝わる。あるいはカフェのウィンドウの向こう側は光と外の景色が映り込んでよく見えない。わずかに影がさし、ガラスが鏡の役割をすることをやめた瞬間に、店内に探していた女の姿が映る。しかし、一瞬目を離すと、また光が差し込んでウィンドウの向こうは見えなくなる。再び見えたときには彼女はいない。こういう風に人物や観客の視界を欺き、「やきもき」させる、実につれなくて楽しい映画だ。
視界だけではない、音もわれわれをどぎまぎさせる。街の喧噪、というか、サウンドスケープとでも呼ぶべきものの処理が繊細で、観客を飽きさせない。靴音や車輪の音、フランス語のみならず時にスペイン語やドイツ語、英語が飛び交う街の人々やカフェの客の話し声(ただし、字幕もなく、聞き取れるほどの大きさでないものも多い。つまり、発話内容は問題とされない。騒音、もしくはサウンドスケープとしての話し声)。そういったものをサラウンド・システムのステレオ装置をフルに利用してうまい具合に絶妙の場所からそれにふさわしいタイミングと大きさで聞かせる。音声およびポストプロダクションの勝利だ。男がシルヴィーだと勘違いした相手を見つけ、追い掛け、話しかけるまでの1時間近い、大半は沈黙の時間が、ぜんぜん苦痛でないのは、この音声処理のおかげだ。
たとえばこうした音声が、視界に見えるものとシンクロしながら、われわれを「はらはらドキドキ」させるのは、男が女を追っている最中、間にトラムが入り込む瞬間だ。少し離れて女を追う男の視線でカメラは回っている。そこにいきなり、トラムが視界を横切り、手前のスピーカーから大きめの車輪や車体の音が流れ、観客はびっくりする。トラムの窓の向こうの女は見えたり見えなかったり、幻のように見えたりで、目がくらむ。これが、10秒くらいのシークエンス。実に絶妙ではないか?
生半なデュアル・オーディオしか持たないのならば、これをDVDで家で見ようなどと考えず、サラウンド・システムを備えた映画館に観に行かなければならない。
ちなみに、大久保清朗が『キネマ旬報』8月下旬号に書いたレヴュー「あわいの官能」は、この映画のインスピレーションがどこから来ているかを示唆していて、実に刺激的。
2010年8月5日木曜日
複雑な愛
ツイッターでフォローしているある人物が、『読売』のオンライン上のこの記事にリンクを貼り、まるでインターンよりゼミを優先させることが悪いみたいじゃないか、と疑義を呈していた。記事になっているのが自分の勤める大学なだけに驚いた。
後で『朝日』を見たら多摩版(13版31面)に同じ記事が出ていた。ちなみに、この記事についての説明は大学のサイト、トップページにも既に掲載されている。ぼくはこの40歳代女性准教授というのが誰のことなのか知らないし、特に彼女を擁護も非難もしない。よく知らないのだから。
『読売』よりも『朝日』の記事の方が少しだけ詳しい。「複数の学生が通学できなくなるといった精神的被害を受けたという」との説明を加えている。さらに、「准教授は、2008年から10年にかけ、学部生、大学院生をゼミで指導する際、同じ内容について長時間しかったり、外国で言葉を学ぶインターンシップへの参加の予定がある学生に対し、その期間内にゼミの発表を割り当てて参加できないようにしたり、威圧的な言動を繰り返したという」と続く。
「外国で言葉を学ぶインターンシップ」とは何だ? なんだか企業がただ働き同然で学生に就業経験をさせるというアレとは少し異なる様相を呈しているようだ。都合が悪いのなら学生から申し出てなぜ順番を変えてもらわないのだ、との疑問が残るが、たぶん、「威圧的な言動」におびえて言い出せなかったのだろうな。もちろん、企業が大学の都合も考えずにあたら学生をただ働きさせることにはおおいに反対ではあるけれども、一方で、学生には労働の厳しさを知れ、とも言ってやりたくはある。
でも今は一般的にインターンシップのことではない。この「外国で学ぶインターンシップ」というのが何だかわからないということだ。しかもそれは授業が開催されるような学期中にあるのだろうか? 日本とは異なるカレンダーで動いているから「外国」ならこういうこともあるということだろうか?
こうした記事は常にそうだが、謎が残る。
でも、ところで、こんな不名誉なことでも自分のかかわる大学がニュースになると、こうして触れてみるのだから、へんなものだ。先日、ある学生がにこにこと笑いながら、「昨日ぼくの実家のある市が日本で一番気温が高かったとニュースになったんですよ」と話していた。それに類するメンタリティだろうか?
そしてまた同時に、ぼく自身の言動が「威圧的」に受け取られていないかとの恐れもあるのか? ちょうど昨日、学生がメールをくれて、後期の卒論ゼミはあるのかと訊いてきた。あるに決まってるじゃないかと返事を書いたら、「ご機嫌斜めですか?」と尋ねられた。ぼくのご機嫌は斜めどころか、まっすぐに突っ立っていたのだが、何やら誤解を与えたようだ。
まあ大学における師弟関係の難しさは、とてもとても古くからある問題なのだけどね。
後で『朝日』を見たら多摩版(13版31面)に同じ記事が出ていた。ちなみに、この記事についての説明は大学のサイト、トップページにも既に掲載されている。ぼくはこの40歳代女性准教授というのが誰のことなのか知らないし、特に彼女を擁護も非難もしない。よく知らないのだから。
『読売』よりも『朝日』の記事の方が少しだけ詳しい。「複数の学生が通学できなくなるといった精神的被害を受けたという」との説明を加えている。さらに、「准教授は、2008年から10年にかけ、学部生、大学院生をゼミで指導する際、同じ内容について長時間しかったり、外国で言葉を学ぶインターンシップへの参加の予定がある学生に対し、その期間内にゼミの発表を割り当てて参加できないようにしたり、威圧的な言動を繰り返したという」と続く。
「外国で言葉を学ぶインターンシップ」とは何だ? なんだか企業がただ働き同然で学生に就業経験をさせるというアレとは少し異なる様相を呈しているようだ。都合が悪いのなら学生から申し出てなぜ順番を変えてもらわないのだ、との疑問が残るが、たぶん、「威圧的な言動」におびえて言い出せなかったのだろうな。もちろん、企業が大学の都合も考えずにあたら学生をただ働きさせることにはおおいに反対ではあるけれども、一方で、学生には労働の厳しさを知れ、とも言ってやりたくはある。
でも今は一般的にインターンシップのことではない。この「外国で学ぶインターンシップ」というのが何だかわからないということだ。しかもそれは授業が開催されるような学期中にあるのだろうか? 日本とは異なるカレンダーで動いているから「外国」ならこういうこともあるということだろうか?
こうした記事は常にそうだが、謎が残る。
でも、ところで、こんな不名誉なことでも自分のかかわる大学がニュースになると、こうして触れてみるのだから、へんなものだ。先日、ある学生がにこにこと笑いながら、「昨日ぼくの実家のある市が日本で一番気温が高かったとニュースになったんですよ」と話していた。それに類するメンタリティだろうか?
そしてまた同時に、ぼく自身の言動が「威圧的」に受け取られていないかとの恐れもあるのか? ちょうど昨日、学生がメールをくれて、後期の卒論ゼミはあるのかと訊いてきた。あるに決まってるじゃないかと返事を書いたら、「ご機嫌斜めですか?」と尋ねられた。ぼくのご機嫌は斜めどころか、まっすぐに突っ立っていたのだが、何やら誤解を与えたようだ。
まあ大学における師弟関係の難しさは、とてもとても古くからある問題なのだけどね。
2010年8月4日水曜日
(部分的)電子図書館化計画
それでまあ、遊び呆けていたわけだ。
……あ、いや、そうではない。とりあえず非常勤先の授業の成績締め切りが昨日、3日に迫っていたので、それの採点を優先させることによって、その他の仕事をしないでいたわけだ。仕事関係のメールもタイトルと差出人だけ見て、ろくに確認もしていなかった。
すると、とある編集者の方からのメールがあった。
あれ(次の翻訳)、進んでます? ええ、もちろん、進んでますとも。遅々としたものではありますが。第3章がもうすぐ終わりそうです。2章まで送ります。
というようなやりとりがなされた。さ、本務校(これはぼくらのジャーゴン。ぼくにとっての外語大)の成績つけが終わったら本腰を入れなきゃ。そのためには、電子化だ! と思った。
他の無視していたメールにあった仕事を済ませるために大学に行き、ついでにテクストをコピーしてきた。コピーしたものを見開き2ページでなく、半分に切り、スキャナで読み込んでPDFファイルに落とし込み、それをドロップボックスへ。そのファイルをiPadで読み取り、iBookの本棚へ。これで電子書籍のできあがりだ。iPadさえあれば、これで、出先でも翻訳作業にいそしめる。もっとも、それより軽い、コピーした紙を持ち歩いてもいいのだが。
ちょうどその連絡をしてきた編集者がこの前に担当していた本の翻訳者が、なんでも原書はPDFファイルで受け取る、紙は要らない、と言っているという話を伺ったような記憶がある。それを思いだし、こうしてみた次第。
本当は紙の本が好きだけれども、たとえば、ある仕事に使うために買った本で、でももうこの関係の仕事はしそうにないから、処分してもいいんだけど、というものがだいぶある。けれども、捨てるに忍びないし、捨てる気になったとしても書き込みやら傍線やらがあって、ブックオフみたいなところに売っても嫌がられるし、お得意、というほどのつき合いのある古本屋もないし、……などと悩むことがある。悩んだ結果、捨てられないでいる。iPadの電子書籍に触れて(ただし、電子書籍自体はiPad以前からあることはちゃんと言っておかなければならない。なにもiPadがすべての始まりではない。Biblioteca Virtual Miguel de Cervantesなど、どれだけ重宝していることか)、かつこのごろ急に増えた書籍のPDFファイル化サービスのことなど聞きかじりながら、こういうのもいいかもしれない、と思っている。用済みの本をPDFとして残す。また必要がでてくれば、電子書籍として読む。
ちょっとまじめに考えてみよう。
では手始めに……
……あ、いや、そうではない。とりあえず非常勤先の授業の成績締め切りが昨日、3日に迫っていたので、それの採点を優先させることによって、その他の仕事をしないでいたわけだ。仕事関係のメールもタイトルと差出人だけ見て、ろくに確認もしていなかった。
すると、とある編集者の方からのメールがあった。
あれ(次の翻訳)、進んでます? ええ、もちろん、進んでますとも。遅々としたものではありますが。第3章がもうすぐ終わりそうです。2章まで送ります。
というようなやりとりがなされた。さ、本務校(これはぼくらのジャーゴン。ぼくにとっての外語大)の成績つけが終わったら本腰を入れなきゃ。そのためには、電子化だ! と思った。
他の無視していたメールにあった仕事を済ませるために大学に行き、ついでにテクストをコピーしてきた。コピーしたものを見開き2ページでなく、半分に切り、スキャナで読み込んでPDFファイルに落とし込み、それをドロップボックスへ。そのファイルをiPadで読み取り、iBookの本棚へ。これで電子書籍のできあがりだ。iPadさえあれば、これで、出先でも翻訳作業にいそしめる。もっとも、それより軽い、コピーした紙を持ち歩いてもいいのだが。
ちょうどその連絡をしてきた編集者がこの前に担当していた本の翻訳者が、なんでも原書はPDFファイルで受け取る、紙は要らない、と言っているという話を伺ったような記憶がある。それを思いだし、こうしてみた次第。
本当は紙の本が好きだけれども、たとえば、ある仕事に使うために買った本で、でももうこの関係の仕事はしそうにないから、処分してもいいんだけど、というものがだいぶある。けれども、捨てるに忍びないし、捨てる気になったとしても書き込みやら傍線やらがあって、ブックオフみたいなところに売っても嫌がられるし、お得意、というほどのつき合いのある古本屋もないし、……などと悩むことがある。悩んだ結果、捨てられないでいる。iPadの電子書籍に触れて(ただし、電子書籍自体はiPad以前からあることはちゃんと言っておかなければならない。なにもiPadがすべての始まりではない。Biblioteca Virtual Miguel de Cervantesなど、どれだけ重宝していることか)、かつこのごろ急に増えた書籍のPDFファイル化サービスのことなど聞きかじりながら、こういうのもいいかもしれない、と思っている。用済みの本をPDFとして残す。また必要がでてくれば、電子書籍として読む。
ちょっとまじめに考えてみよう。
では手始めに……
2010年7月31日土曜日
酒と採点の合間に少しだけ読書
前回告知の講演会、授業時間を過ぎ、7時くらいまで続いたが、盛況であった。ある小説を映画化するに際して、何が切り捨てられるか、その切り捨てられたところに原作のどれだけの面白さがあるか、といったことを具体的に考えさせられるお話であった。たとえば小説『予告された殺人の記録』には殺されたサンティアーゴ・ナサールを始めとしてアラブ人社会が前提されているのだが、それが映画では隠蔽されていることなど。久しぶりに観て驚いたのだが、そもそもナサールNazaharという苗字自体がNasarと書き換えられている。
金曜日はゼミの学生たちと納会。その間に注文していた本が届いた。
小谷充『市川崑のタイポグラフィ——「犬神家の一族」の明朝体研究』(水曜社、2010)
タイトルを読むだけでこれがいかに特異な本かわかるというものだ。「デザイン言語による映画評論の可能性を見出す」(16ページ)ことを目指した野心作。
「観客」とは誰のことだ、という初歩的な疑問を叩きつけることさえできない。ぼくは『犬神家の一族』公開当時13歳で、地の果てのさらに向こうに住み、これを映画館で観る経験はしていない(ぼくより5歳年下の小谷も同様のはずだ)が、確かにしばらくしてTVで上映されたこの映画の冒頭に、ぼくは一種のショックを感じたはずなのだ。その「一種のショック」が「明朝体の美しさ」の認識だということには気づかなかったけれども。なるほど、いわれてみればあれはそういう経験だったのだと気づかせてくれて、その研究の正当性を知らしめる、実に優れた冒頭だ。
そしてこの市川崑の明朝体が、『新世紀エヴァンゲリオン』や『古畑任三郎』のオープニングのタイトルクレジットやCM、TV番組のテロップにも影響しているのだと説かれれば、これはもう読むしかないだろう。
ああ、その前に大量のレポートを優先的に読まなければならない自分が恨めしい。あまりにも恨めしいので、今日は元教え子と飲みに行こう。
金曜日はゼミの学生たちと納会。その間に注文していた本が届いた。
小谷充『市川崑のタイポグラフィ——「犬神家の一族」の明朝体研究』(水曜社、2010)
タイトルを読むだけでこれがいかに特異な本かわかるというものだ。「デザイン言語による映画評論の可能性を見出す」(16ページ)ことを目指した野心作。
映画冒頭、犬神佐兵衛の臨終シーンから暗転、悲しげな旋律にのせて禍々しいタイトルが表示される。驚きの瞬間はその直後のことだった。あとに続くスタッフや出演者のクレジットに観客たちは目を見開いたのである。縦横無尽に、ときに無骨に、あるときは風が吹き渡るように、巨大な明朝体がスクリーンを乱舞した。観客たちはたじろぎ、凛とした明朝体の美しさに気づくと、作品世界に否応なく引き込まれていった。(8ページ)
「観客」とは誰のことだ、という初歩的な疑問を叩きつけることさえできない。ぼくは『犬神家の一族』公開当時13歳で、地の果てのさらに向こうに住み、これを映画館で観る経験はしていない(ぼくより5歳年下の小谷も同様のはずだ)が、確かにしばらくしてTVで上映されたこの映画の冒頭に、ぼくは一種のショックを感じたはずなのだ。その「一種のショック」が「明朝体の美しさ」の認識だということには気づかなかったけれども。なるほど、いわれてみればあれはそういう経験だったのだと気づかせてくれて、その研究の正当性を知らしめる、実に優れた冒頭だ。
そしてこの市川崑の明朝体が、『新世紀エヴァンゲリオン』や『古畑任三郎』のオープニングのタイトルクレジットやCM、TV番組のテロップにも影響しているのだと説かれれば、これはもう読むしかないだろう。
ああ、その前に大量のレポートを優先的に読まなければならない自分が恨めしい。あまりにも恨めしいので、今日は元教え子と飲みに行こう。
2010年7月28日水曜日
まだ終わらない
今日は会議のない会議日。2限の授業は授業内試験で早めに終わり、従って早く帰宅した。早く帰宅したからといって気が安らいでいるわけではない。仕事は終わらない。
仕事は終わらないが、大学もまだ終わらない。授業週を15週確保しろとのお上からのお達しというやつで、まだ授業をやっている。今週で終わるものの、授業が今週で終わるということは、試験は来週あるということだ。来週といえばもう8月だ。やってられないのだ。
そんなわけで、既に告知済みだが、授業の一環として、こんな講演会、行います。明日です。「原作が解き明かす映画の謎——『予告された殺人の記録』を読む」。野谷文昭さん。原作の翻訳者にして映画の字幕製作者だ。映画を観、かつ原作との関わりでレクチャーをしてくださる。楽しみ。
フランチェスコ・ロージの映画版『予告された殺人の記録』はVHSソフトにはなっているのだが、DVD化はされていない。アラン・ドロンの息子アンソニー、ルパート・エヴェレット、オルネッラ・ムーティといったアイドル並みの俳優陣が出ているのだが。そんなわけで、今どきVHSデッキを持たない学生にとってはまたとないチャンス。
これが終わったらぼくも授業は終わる。めでたい。
仕事は終わらないが、大学もまだ終わらない。授業週を15週確保しろとのお上からのお達しというやつで、まだ授業をやっている。今週で終わるものの、授業が今週で終わるということは、試験は来週あるということだ。来週といえばもう8月だ。やってられないのだ。
そんなわけで、既に告知済みだが、授業の一環として、こんな講演会、行います。明日です。「原作が解き明かす映画の謎——『予告された殺人の記録』を読む」。野谷文昭さん。原作の翻訳者にして映画の字幕製作者だ。映画を観、かつ原作との関わりでレクチャーをしてくださる。楽しみ。
フランチェスコ・ロージの映画版『予告された殺人の記録』はVHSソフトにはなっているのだが、DVD化はされていない。アラン・ドロンの息子アンソニー、ルパート・エヴェレット、オルネッラ・ムーティといったアイドル並みの俳優陣が出ているのだが。そんなわけで、今どきVHSデッキを持たない学生にとってはまたとないチャンス。
これが終わったらぼくも授業は終わる。めでたい。
2010年7月25日日曜日
夢
ビクトル・エリセの新作映画を見る夢を見た。三晩に分けて見るという形式で、その夢自体を二晩かけて見たのだった。夢は、記録したり記憶したりと訓練すれば、やがて見たい夢を見れるようになるのだ。
三晩目に衝撃のラストが待っていた。しかしその衝撃のラストを前もって夢に見るという夢を見ていて(夢の中の夢)、内容を正確に知っていた。映画はそれを確かめに行ったようなものだった。しかもその衝撃のラストの起こった場所と同じ場所に映画館があり、映画(夢)の中に出ていた人物が切符を売っていた。なんてことをしてくれたんだ、と詰め寄りながらチケットを買った。現実に(と言っても、夢の中で)映画を見終えると、衝撃の重みに押し潰されそうだった。泣きながら歩いていると、映画の主人公が巻き込まれた状況と同じ状況に巻き込まれそうになっていた。
昨日、7月24日はオープンキャンパスだった。ICUと同じ日だったので、武蔵境あたりは混雑していた、と武蔵境在住の人が言っていた。オープンキャンパスでは、専攻語別相談会というやつで受験生・高校生たちに対応して、色々と相談に乗っていた。相談、なのかな? 14:00-14:40には体験授業というのをやった。101という300人ちょっと収容の最大の教室での催しで、そこで立ち見が出た。盛況ぶりがわかろうというもの。
終わってから信濃町のスペイン協会へ。そこが主催する会田由翻訳賞という賞の授賞式だ。会田由は『ドン・キホーテ』の翻訳者。彼が亡くなった後に創設された賞で、しばらく途絶えていたのが、昨年復活して、今年はその復活第2回ということ。受賞者は野谷文昭さん。実はこれが復活第2回であることも彼の受賞のスピーチで知ったこと。終わってからパーティ。そして二次会。そろそろ名刺が切れかけている。
三晩目に衝撃のラストが待っていた。しかしその衝撃のラストを前もって夢に見るという夢を見ていて(夢の中の夢)、内容を正確に知っていた。映画はそれを確かめに行ったようなものだった。しかもその衝撃のラストの起こった場所と同じ場所に映画館があり、映画(夢)の中に出ていた人物が切符を売っていた。なんてことをしてくれたんだ、と詰め寄りながらチケットを買った。現実に(と言っても、夢の中で)映画を見終えると、衝撃の重みに押し潰されそうだった。泣きながら歩いていると、映画の主人公が巻き込まれた状況と同じ状況に巻き込まれそうになっていた。
昨日、7月24日はオープンキャンパスだった。ICUと同じ日だったので、武蔵境あたりは混雑していた、と武蔵境在住の人が言っていた。オープンキャンパスでは、専攻語別相談会というやつで受験生・高校生たちに対応して、色々と相談に乗っていた。相談、なのかな? 14:00-14:40には体験授業というのをやった。101という300人ちょっと収容の最大の教室での催しで、そこで立ち見が出た。盛況ぶりがわかろうというもの。
終わってから信濃町のスペイン協会へ。そこが主催する会田由翻訳賞という賞の授賞式だ。会田由は『ドン・キホーテ』の翻訳者。彼が亡くなった後に創設された賞で、しばらく途絶えていたのが、昨年復活して、今年はその復活第2回ということ。受賞者は野谷文昭さん。実はこれが復活第2回であることも彼の受賞のスピーチで知ったこと。終わってからパーティ。そして二次会。そろそろ名刺が切れかけている。
2010年7月22日木曜日
おいしい水Agua de beber
メキシコではそれを水aguaというのだった。果汁百パーセントでないジュースを。
最初にメキシコに行ったのは政府の奨学金をもらった91年。到着後の手続きは奨学生全員で行ったから、時々、通訳代わりをやらされた。行ってすぐの夜、食事に出て立ち寄ったのが先に食券を買う方式の食堂。ほとんどスペイン語の話せない同行者たちの注文を色々と手助けすることになった。「飲み物は?」と訊かれたので訳すと、「何がある?」と同行者。訳すと食券売りの人はビールだの清涼飲料水だのジュースだのと挙げていく。そして、水だと。「水でいいや」と同行者が言うので訳すと、「何の水だ?」と問われた。
何の水だ? 水に何の水も何もあるものか。それはいったいどういうことだ。同行者に訳しもせずに、食券売りに訊いてみた。いろいろな水があるからさ、と食券売り。スイカだ、メロンだ、イチゴだと……
その後ぼくは堪能することになる。メキシコ市の街角には方々にジューススタンドが立っていて、オレンジジュースやらバナナシェークやら各種の水を売っている。オレンジはジュースだ。果実を切り、絞り器で絞って出す。紛れもない果汁百パーセント。ミキサーlicuadoraに果実とミルクを入れれば、シェークlicuado。一杯のバナナシェークはぼくの毎朝の日課となった。当時、ちょうど1ドル。ミキサーに作った分はすべて要求できる。ミルクではなく水を入れ、砂糖などで味をつけてミキサーを回せば、それが、水。スイカ、メロン、イチゴ、リンゴ、グワバ、パッションフルーツ、……実に多くの水があり、うれしい。メロンやスイカの水などもよく飲んだ。
今日、風呂上がりには、きのういただいたメロンの水を作って飲んだ。
暑かったのだ。こんな暑い日に授業、書類仕事、昼食、そのまま授業、間を置かずに授業内テスト、時間外の会合、と続いたので、へとへとだ。それなのに、明日は朝も1時限から試験だという。
ところで、同僚とエレベータを待っていたら、知り合いの1年生たちが近づいてきて、どんな試験問題ですか? これくらい難しいんですか? と同じ教材を使っている別の先生が他のクラスで実施した試験問題を振りかざす。簡単な問題にしてくださいね。授業中に言ったろ? とぼくは答えた。ぼくは感動的な問題を作るのだ。ふふふ。
なーに言ってんだか、エレベータの中で同僚が鼻で笑う。えへへ。
別の同僚は、知人の学生が受けた授業のレポートに「チャーミングな題をつけてね」と言ったとか。チャーミングなタイトル、感動的な試験問題、いずれもすてきじゃないかい?
学生時代のある先生が自慢していたことは、次のような問題を出したとか、出そうと考えている、とかいうものだ。「次の単語の可能な限りの意味を書け: ve 」
すてきじゃないか。ちなみに、veの可能な意味は3つ。 ……だっけか?
最初にメキシコに行ったのは政府の奨学金をもらった91年。到着後の手続きは奨学生全員で行ったから、時々、通訳代わりをやらされた。行ってすぐの夜、食事に出て立ち寄ったのが先に食券を買う方式の食堂。ほとんどスペイン語の話せない同行者たちの注文を色々と手助けすることになった。「飲み物は?」と訊かれたので訳すと、「何がある?」と同行者。訳すと食券売りの人はビールだの清涼飲料水だのジュースだのと挙げていく。そして、水だと。「水でいいや」と同行者が言うので訳すと、「何の水だ?」と問われた。
何の水だ? 水に何の水も何もあるものか。それはいったいどういうことだ。同行者に訳しもせずに、食券売りに訊いてみた。いろいろな水があるからさ、と食券売り。スイカだ、メロンだ、イチゴだと……
その後ぼくは堪能することになる。メキシコ市の街角には方々にジューススタンドが立っていて、オレンジジュースやらバナナシェークやら各種の水を売っている。オレンジはジュースだ。果実を切り、絞り器で絞って出す。紛れもない果汁百パーセント。ミキサーlicuadoraに果実とミルクを入れれば、シェークlicuado。一杯のバナナシェークはぼくの毎朝の日課となった。当時、ちょうど1ドル。ミキサーに作った分はすべて要求できる。ミルクではなく水を入れ、砂糖などで味をつけてミキサーを回せば、それが、水。スイカ、メロン、イチゴ、リンゴ、グワバ、パッションフルーツ、……実に多くの水があり、うれしい。メロンやスイカの水などもよく飲んだ。
今日、風呂上がりには、きのういただいたメロンの水を作って飲んだ。
暑かったのだ。こんな暑い日に授業、書類仕事、昼食、そのまま授業、間を置かずに授業内テスト、時間外の会合、と続いたので、へとへとだ。それなのに、明日は朝も1時限から試験だという。
ところで、同僚とエレベータを待っていたら、知り合いの1年生たちが近づいてきて、どんな試験問題ですか? これくらい難しいんですか? と同じ教材を使っている別の先生が他のクラスで実施した試験問題を振りかざす。簡単な問題にしてくださいね。授業中に言ったろ? とぼくは答えた。ぼくは感動的な問題を作るのだ。ふふふ。
なーに言ってんだか、エレベータの中で同僚が鼻で笑う。えへへ。
別の同僚は、知人の学生が受けた授業のレポートに「チャーミングな題をつけてね」と言ったとか。チャーミングなタイトル、感動的な試験問題、いずれもすてきじゃないかい?
学生時代のある先生が自慢していたことは、次のような問題を出したとか、出そうと考えている、とかいうものだ。「次の単語の可能な限りの意味を書け: ve 」
すてきじゃないか。ちなみに、veの可能な意味は3つ。 ……だっけか?
2010年7月21日水曜日
おすそわけ
こんなものは見ているだけで2度ばかり気温が低くなったような気がする。殺人的な教授会のあった日にはホッとする。
一個まるごといただき、ビニール袋に入れて持ち帰った。助手席のシートに置こうとすると、安定が悪いような気がして、床に置いた。車の揺れに合わせてゴロゴロ転がっていた。家について見てみると、ビニール袋は空だった。
どこに行ったんだろう? この車の床には何かが棲んでいるのか?
何のことはない。シートの下にあった。
帰宅してさっそく食べた。おいしい。
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