2011年2月22日火曜日

レポートの陥穽と完成、そして感性

教師と学生の関係など騙し合いだ、と言ったらいささか偽悪者ぶりが過ぎるだろうか? 少なくとも教師は学生が思いもよらなかった世界に彼らを連れて行きたいと願うものだから、見ようによっては彼らの裏をかくような課題を出す。出そうとする。それが騙し合いに見えることもある。

「アメリカ文化論II」の課題は、7つ(その後、8つに増えた)の課題のうちのひとつを選べというものだった。7つの課題は順に:1-3は秋に行われた演劇祭で上演されたスペイン語圏の人々の劇を見てその劇評を書けというもの。以下:

4. スペイン語圏で撮られた、またはスペイン語圏を題材にした映画をモンタージュの観点から分析して論ぜよ。
5. 岩波書店刊『大航海時代叢書』の任意の一冊を読み、それと現代の文化との接点を論述せよ。
6. (マリオ・バルガス=リョサ、ノーベル賞受賞記念課題)バルガス=リョサ『フリアとシナリオライター』野谷文昭訳(国書刊行会、2004)の偶数章は、奇数章の物語の登場人物のひとりが書いたラジオドラマということになっている。しかし、小説のような語り口なので、そのままではドラマにならない。任意の偶数章のひとつの物語をシナリオ、もしくは戯曲の形式に書き換えよ。章全体を書き換える必要はない。
7. スペイン内戦かメキシコ革命、キューバ革命、チリのクーデタ(1973)、アルゼンチンの軍政(1976-83)、エル・サルバドール内線(1980-92)のいずれかの事件を巡る複数の表現(絵画、小説、映画、俗謡、ジャーナリズム等々)を比較してその描かれ方の特質を分析せよ。

というもの。これは早く仕上げられそうな順に提示してある。ぼくはレポートはいつ提出してもいい、早ければ早いほどいい、すぐに採点して返すから合格点(6割)に満たない者は書き直せる、と常々言っている。1-3の課題の劇は11月にあったのだから、観て、その日のうちに書いてすぐに提出すれば良さそうなものだ。でも学生たちはぎりぎりまで出さない。これがまず第一の陥穽なんだな。締めきり間際にならないと完成させられない。早く出すことを推奨し、書き直しを認めるのは、かなり多くの学生が、普通に採点すれば合格点に達しないからだ。でも、ぎりぎりで出していたのでは、書き直しはできない。合格点に達しない。

個々の課題は、難しそうに見えて、実は授業で扱ったことに対応している。4の課題なんて、だから、授業で提示した参考資料をちょっと見て、映画観て、あるシーンがどのように作られているか分析的に書けばいいだけのこと。とても簡単だ。それなのに、こうした簡単な課題を選ぶ学生は少ない。出題意図に思い至らないか、授業に真面目に参加していないんだろうな。これが第2の陥穽。

今回、6の課題を選ぶ学生が実に多かった。これが第3の陥穽。授業内で戯曲の存在様態を、ある作品について分析したのだが、これを踏まえて戯曲(やシナリオ)のセリフとト書きのあり方を念入りに検討して書き換えなければならない、おそらく、一番難しい課題なのだな、これは。授業内容を踏まえるだけでなく、どのシーンを選び、それをどう展開するかは、ある種の創作の才能というか、感性というか、そういうのも必要とするだろう。小説内の科白を戯曲の台詞としてそのまま書き、地の文をト書きにすればいいという問題ではない。何でみんなこんな難しいのを選ぶのかな、とぼくは不思議でならない。まあ楽しい作業ではあるけれども。

また、今年に入ってから配った授業資料で、あるひとつの事件について歌われたコリード(メキシコの民衆詩)の2種の変種というのがあった。これを充分に扱えなかったので、スペイン語のわかる学生はこれを訳し、2つの変種の差異を説明する、という課題でもいいと伝えた。面白いことに、そのとき遅刻したり欠席したりした学生が何人か、この課題を選んだ。

外語の風土病だ。テクストの訳読などの授業にあまりにも馴染んでいるがために、ふだんやっていることをやればいいのだろうと、それなら簡単ではないか、とばかりにこういう課題に飛びつく。ふふふ。しかし、実はその詩というのがとても難しいのだよ。というのが最後の陥穽。

さ、こんな解説ばかりしていないで、実際の採点をしなきゃ。