2011年2月8日火曜日

ギヤマン造りの涙を見た

昨日、「女の涙に真実はない、すべてはギヤマン造りだ」なんて漱石の小説の科白をよく覚えていると書いたものだから、お前もそうしたホモソーシャルな欲望に身を委ねるつまらない男なのだろうと詰問されてしまった。

そうではないのだよ。ぼくはただ、このときはじめて「ギヤマン」という単語(ガラスの意味だ)を知ったから覚えている。ただそれだけなのだよ。

まず、漱石その人がホモソーシャルな欲望を抱えていたというわけではない。そういうものを描いたということだ。高澤秀次も『猫』のくしゃみ先生の欲望が妻のひとことで一蹴されるところに漱石の巧まざるユーモアを読み取っている。ぼくだって登場人物の意見と作家の意見を区別することくらいはできる。

だいたい、男も女もなく、涙なんて眼球を洗浄するためのものだ。そこに「真実」など読み取ろうとは思わない。それがぼくの考え。それに、「女の涙」なんてものを(「男の涙」もだが)ぼくは見たことがないのだから、その存在さえ疑っている。

おっと、ところで、ぼくは生涯に一度だけ、目の前の女性に泣かれたことがある。大学の後輩だ。ぼくたちは世間話をしていた。他愛ない話だ。悲しくも嬉しくもないはずの場面だったのに、突然、彼女のつぶらな瞳から大粒の涙がこぼれ出たのだ。真珠のような涙が。ダイヤモンドのような涙が。

——どうした? ぼくは何か君を傷つけるようなことを口走ってしまったのか? だとしたら許してくれよ。
——ごめんなさい。そうじゃないの。コンタクトが……

コンタクトか。レンズなのね、つまり。なるほど、涙はギヤマン造りだなあ。と当時のぼくは思ったに違いない。記憶が新たにされた瞬間だ。

さ、馬鹿なこと言ってないで、テストの採点に戻ろう。写真は「ホモソーシャルな欲望」の語を打ち出したイヴ・K・セジウィック『男同士の絆』上原早苗、亀澤美由紀訳(名古屋大学出版会、2001)。その下に採点途中の試験の答案用紙。