ムバラクが辞任したなんて話を聞くと、先日のチュニジアのことといい、このたびのエジプトのことといい、ゼネストやらデモやらで国家元首が首都から逃亡、政権が転覆する事態というのは、キューバ革命のようだ、カルペンティエールの夢見た世界だ、との感慨にとらわれる。ただし、キューバ革命というか、カルペンティエールが夢見たのは、アメリカ合衆国の傀儡政権のような独裁者が民衆の力によって追い出されるという話であって、ムバラクのように合衆国にとってのペルソナ・ノン・グラータが追放される(そこに合衆国の望みが込められている、もしくは陰謀が張り巡らされている、かもしれない)という事態とは、まったく位相を異にするのではあるが。
カルペンティエールの『方法再説』は、中米の架空の国の独裁者〈国家元首〉が、政敵〈学生〉などの働きもあって、まさにゼネストを機に失墜するという話。パリに行けば名だたる文人たちと交流し、自国にはオペラ興業などを招聘する「啓蒙専制君主」ぶりを発揮する〈国家元首〉が、官邸の望楼に追い詰められ、視界を遮られ、情報を遮断され、孤独を露呈していくさまが滑稽だ。
小説なのだから、単純な民衆万歳! くたばれ独裁者! に終わらないユーモラスな記述で、なかなか面白い。デカルトの著作からの引用を各章(や節)のエピグラフに掲げ、そのデカルトの言葉が中米の国にあっては裏切られるような、裏目に出るような、パロディ化されて再生産されるような実態を描いているから、デカルト(『方法叙説』Discours de la méthode )の再生産(しかし滑稽な)である(『方法再説』Recurso del método )とのタイトルになっている。
ぼくはこの小説を修士論文の中心に据えて分析したし、折に触れて翻訳の企画を持ちかけては、うまく行きそうになりながら、いまだに成就できないでいる。そのうちやろう。
ところで、前回ほのめかした、声優になった卒業生の参加するアニメは『鉄拳戦士アイアンキッド』というやつで、右手だけ機械でできた少年が、なにやらあくどい組織に捕まって強い連中を相手に戦うことを強いられる、というような話のようだった。旅の伴で、人質に取られて、少年の格闘の担保にされているヒロイン、エリーが、その卒業生の役所。つまり、ヒロインだ。
録画して観てみたら、CGによる3D風のアニメで、そういえば、ハリウッドでの『アトム』もそんな感じのアニメであった(といっても、それを観たわけではない。これに関するドキュメンタリーをTVで観た記憶があるということ)が、これになぜ違和感を感じるのだろう? とそんなことを考えながら観ていた。いや、もちろん、そのエリーの声にも耳を澄ませながら。
で、おそらく、ぼくらが馴染んでいるアニメーション(といっても、ぼくは別にアニメ好きではない。というか、むしろあまり馴染みがない)は2次元であるがゆえに作家性が感じられるということなのではないかと思いつく。それはどういうことか? 早い話、ぼくたちはまだこのCGによるアニメを観る準備が充分にできていないということだ。