大学院博士前期課程冬入試面接。博士前期課程というのは、要するに、修士課程のこと。近年は秋入試・冬入試と、2回に渡ってやる。今日はその冬入試。
第2外国語をスペイン語で受けた学生がいたので、本来、加わらなくていいのだけど、「協力者」という資格で加われ、と言われて行った次第。
何のことはない、それはアルトーをクリステヴァやらデリダらを通じて論じるという計画を持つ受験生で、詩論の確立などにもはやあまり興味を持っていないぼくではあるが、まあ若いうちはこういうこと考えるよね、こういう野心は素敵よね、と思いながらニコニコしているだけであった。最後に何かないかと水を向けられたので「正反対」の意味で「真逆(まぎゃく)」なんて書いているけど、これって、『大辞林』にしてやっと最近の版で「俗語」として登録した語で、『日本国語大辞典』にいたっては「真逆(まっさかさ)」という語しかないからね。こんなんは論文には、ましてやこんな20世紀フランス知識人の身振りをまとうかのような文体にはそぐわないからね、と言った。きょとんとしていた。きっと「真逆(まぎゃく)」が最近の語だという意識などないほどに内面化しちゃってるんだろうな。
帰りにスーツをあつらえてきた。といっても、簡易オーダーメイドで安く作ってくれるようなところでの注文。スーツのためのシャツを作りに行ったら、ついでにスーツも、ってことになった次第。最近ドラスティックなシルエットの変化を経験したので(モードの世界が、ということ。ぼくが、ではない)、大抵のスーツがどこか時代遅れになっている上に、一着、決定的にくたびれ、擦り切れ、破れ、使い物にならなくなっているものがあったから、それの代わりだ。
ぼくはあまりスーツは着ないが、それでも数着は持っている。ジャン-ポール・サルトルが毎年、同じデザインのスーツを何着かまとめて作り、それをとっかえひっかえ着ていた、だからいつも違うスーツを着ているのだが、傍目には同じスーツを着ているように見えた、なんて話を聞くと、いいな、俺もそういうことやりたいな、と思ったりはする。実際にはそんなことはしないが。
で、サルトルと同じようなことを『西部警察』のころの渡哲也はしていた、という話を聞いたことがある。渡哲也というより、大門課長(だっけ? 彼の役名は。実は『西部警察』ってほとんど観たことがないのだった)は、というべきだろうか? ともかく、そんな渡哲也または大門課長がその行為をするにあたってサルトルからヒントを得たのかどうかは不明。
サルトルのスーツは限りなく黒に近いグレーだったはずだ。あるいは黒だったかも。彼は黒の世代の人間だから。たとえばメキシコで「実存主義者」というと、黒いスーツを着た連中、という含意とともに流行した風俗であるらしい。思想潮流と言うよりは。とホセ・アグスティンが書いていた。
イタリアの未来派の詩人フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティはいつも黒いスーツを着ていた。なぜ着替えないのかと訊かれた彼は答えた:「カラスは着替えない」。という逸話を若桑みどりが授業中(彼女はぼくが学生時代、外語に非常勤で来ていた)言っていたように記憶するのだが、果たしてそれはマリネッティだっただろうか? それともマヤコフスキーだっただろうか? 未来派の先端志向が鳥、および鳥のくちばしへの偏愛を生みだした、という話の流れだったように思う。昔のノートで確認したが、記していない。書いていないことに限って記憶してるんだな。
ん? 鳥ならば、それとも、ロプロプ鳥のエルンストの話か?
ぼくも今度、黒い服を立て続けに着て行って、そのことを誰かに指摘されたら言ってやろう。カラスは着替えない。