書評家の豊崎由美が主導して始めたツイッター文学賞というのがある。ツイッター上でひとり一票、その年の文学作品で一番いいと思ったものに投票し、それを集計して順位をつけるという催し。
ツイッターにはハッシュタグというのがあって、「#」+アルファベットや数字の文字列をつくり、その前後にスペースを作れば、この文字列についての書き込みを一覧表示できる。そのシステムをつかって票を集計するという仕組み。
そのツイッター文学賞第1回の発表の座談会がUstream(やはりインターネット上でリアルタイムで映像発信できるサイト)で配信された。最大800人以上が視聴していた。そこで、ボラーニョ『野生の探偵たち』が5位だった。翻訳作品と日本作品の部門があって、もちろん、翻訳物で5位。めでたい。
1位は圧倒的にミランダ・ジュライ『いちばんここに似合う人』岸本佐知子訳(新潮社、2010)だった。
短編集だ。やっぱり短編は強いな。いや、もちろん、短編の強みだけでなく、魅力的な短編集だからこその評判なのだが。
おお、そういえば、ぼくはつい最近、リカルド・ピグリアの「短編小説についての命題」なんてのを訳したのであった。そんな新たな目をもってジュライの短編を読んでみようではないか。
豊崎由美、大森望の名コンピにあと3人ばかり加わっての座談会では、たとえば、「妹」という短編の話で盛り上がっていた。中年(初老?)の独身男が、そんな立場の男にありがちなように、しばしば友人たちから妹を紹介されるという書き出し。友人の妹なのだから、その彼女もけっこうな年に違いないのだが、その主人公がついつい若いティーンエイジャーの妹を想像してしまうという、そんな悲しい身の上を描いておかしい、と批評家たちは笑っていた。
うむ、確かにこの主人公はとっても悲しく、おかしい。仕事仲間からブランかという妹を紹介すると提案されるところから物語は動き始めるのだが、それがまたいい:「ブランカ・シーザー=サンチェス。その名を聞いて、自分はまたぞろ、うんと若い娘を思い浮かべるという間違いをやらかした。白いドレスを着た十代の娘。ういういしい胸のふくらみ。せび紹介してくれ、と答えた」(61-62)。
残念、メキシコ系だったら「シーザー」でなく、「セサル」なのだよ、ということは今はどうでもいい。この間違いがプロット1、つまり目に見える物語の始まり。これだけで充分面白い。
Ustream上の批評家たちは「ところが、……」と結末をごまかしていた。結末というのは、プロット2、秘密のプロットの顕在化する瞬間のことだ。いわゆる「ネタバレ」を避けたのだろう。「ネタバレ」にならないぎりぎりの範囲でいうと、こうして主人公は色々な場所に引きずり出されて(エイズの慈善パーティーとか友人とブランかの両親の入院している病院とか)ブランカに紹介されると言われるのだが、すれ違いばかりでなかなか会えない。3人で飲もうと友人宅に呼ばれたとき、結局、ブランカなんていないと言われる。
ブランカはいない、ではそれはどういうことなのか? それを示唆するのが主人公が連れ出された場所の数々だ、というように、プロット2は確かに、実にたくみに用意されている。うまい。
しかし、ミランダ・ジュライの一番の魅力は、おそらく、こうした伏線、プロット2にくみする細部とは別個、読者をミスリードするある要素があるということだ。それは目に見えない誰かが近づいてくる、あるいは近くにいることを感じる主人公の能力だ。「ブランカのことを想ううちに、彼女がだんだん近づいているのが気配で感じられた。下の通りを歩いてくる足音が聞こえ、階段を小走りに上がってくる音がして、ドアがぱっと開く」(70)。
そして、この「能力」を保証するのが、「妹」と聞いてティーンエイジャーを思い浮かべる主人公の妄想癖。加えて、他の短編でも不在の誰かの存在を感じる主人公たちが出てくるという、短編集全体の構成。実際、ミランダ・ジュライの魅力のひとつは、この不在の誰かを感じ取る人々の造型なのだと思う。
岸本佐知子の訳であることもこの翻訳短編集の強みだろうな。今問題にしている短編「妹」の主人公=語り手の一人称が「自分」であるところなど、すばらしい選択だと思う。ぼくはこの一事をもってこれに引き込まれた。うまい。ジュライも、岸本も。第1回ツイッター文学賞1位は伊達ではない。