昨日、散歩の際にふだんありま向かわない方向へ向かったら、バーミヤン、びっくり寿司、セブンイレブンといった、企業としてはつぶれないだろうと思われる企業の店舗が、いつの間にか閉鎖されていることに気づいた。
丸井方式だ。スクラップ・アンド・ビルトでばんばん作ってばんばん潰す。ぼくの近所のこの店舗は採算が取れなかったのだろう。いろいろな大学の新学部みたいだ。新書ブームと同じ原理だ。
などということを考えながら読んだのが、
エルヴィン・パノフスキー『〈象徴形式〉としての遠近法』木田元監訳、川戸れい子、上村清雄訳(ちくま学芸文庫、2009)。
「象徴」には「シンボル」というルビがふってある。カッシーラーの用語「象徴形式」を、遠近法にもまた当てはまるものだとして、その意味を探ったもの。「個々の芸術上の時代や地域が遠近法を有するかどうかということだけではなく、それがいかなる遠近法を有するかということが、これらの時代や地域にとって本質的な重要性をもつ」(30)ということ。遠近法は人間中心の時代に芸術において中心をしめるようになった技法だということ。そしてそれぞれの時代の「人間中心」のあり方によって遠近法のあり方が異なる。
作っては壊しのわれわれの時代は消失点からこちらに向かう直線の中に常に欠損が生まれている寂しい時代なのだなと、そんなことを考えながら道を歩いていたわけだ。
ところで、この本が冒頭読者を引き込むのは、この遠近法的に配された直線を、実際には人間は彎曲した曲線として認識するという指摘がなされるから。そして、17世紀(ケプラーなど)と19世紀(ヘルムホルツ)にはそのことが問題にされたと教えられるから。
天井と壁の接線や本棚の上辺をまじまじと見つめて過ごした。