東京外国語大学総合文化研究所と東京外国語大学出版会共催のシンポジウム「世界文学としての村上春樹」終了。
柴田勝二はポスト日露戦争の漱石の意識とポストモダンの村上春樹の意識を対比させ、藤井省三は村上作品にみる魯迅の影を浮き彫りにし、亀山郁夫は父殺しのモチーフに始まるギリシャ悲劇的な根源を熱く語り、都甲幸治はアメリカ文学の担い手としての村上春樹をドン・デリーロ『マオⅡ』と対比させた。
主催者である柴田さんがいきなり予定時間を20分も超過する発表を行って、予定の時間はだいぶ延びたのだけど、まあ内容としては皆さん面白かった。白状すると藤井省三の書いたものは読んだことがなかったので、彼がこれまでに書いたことの繰り返しなのか、新たな指摘なのかわからないけれども、魯迅と村上春樹の比較は目からウロコ、という感じだった。
実際、ぼくもデビュー当時から村上春樹の小説はすべて読んではいるのだが、研究者として、あるいは批評家として読む態度をこの作家に対して保持したことはないので、村上春樹論のたぐいはたまに目についたものしか読んでいない。そんな身からすれば、どれも教えられることの多い読みだった。うーむ、やはりすぐれた小説というのは豊かな読みを換気するのだな、と。
観客の入りを危惧していたのだが、ぼくの予想に反し、かなり来ていた。200人近かったのではないか? 大盛況。やはり村上春樹だ。討論の時間には慶應で村上春樹で卒論を書いているという学生から質問というか、コメントがあった。うむ。必要なことではあるだろうが、この時期だけに、卒論書いてる方がいいのでは、と心配にもなった。