そんなわけで、何冊か彼の本を読んでみた。とおり一辺の紹介ではなく、作風などを紹介するというのが慣習だからだ。
なかなか面白い。斎藤美奈子はアーサー・ビナードを「おそるべき言葉のコレクターである」と評価している(『空からきた魚』解説)。立川談四楼は必ずオチをつけると、彼の文章の特徴を分析している(『出世ミミズ』解説)。ふむ。どれもそのとおりだと思う。でもぼくは実際の講演会の紹介では、ちがう話をしようと思う。
その話をここで書いてはしかたがないので、さらに違うことを。
長江朗は「自転車と徒歩の視線がアーサー・ビナードの文章の根っこにある」と断じている。そして、すぐに続けて、「彼の文章は自転車のペダルをこぐようにして紡ぎ出される」と。つまり、話がリズムへと移っていく。そこに移らず、「自転車と徒歩の視線」のことにも気を留めてほしいものだと思う。地上を這わせる視線が作り出す想像力。
そんな想像力を彼が持っていると感じさせるのは、ウォレス・スティーヴンスの詩 Tea とそれの福田陸太郎による翻訳「お茶の時間」を比べるときに発揮されている。
原作は映像的で、カメラアイが低いアングルで寒い公園をうつしてから、暖かい室内へと移動、明かりの下のぬくぬくしたクッションにズームインして、紅茶を飲む男女二人を画面に出さずに、間接的に艶っぽく描く。巧みな比喩は、読者のイマジネーションをくすぐるけれど、表現される世界は全て日常の範囲内だ。それに引き替え、日本語訳のほうはいきなりファンタジーへと飛び立ち、帰って来ようとしない。それぞれの出だしは次の通り。
When the elephant's-ear in the park
Shrivelled in frost
公園の象の耳が
霜でちぢまったとき (『日本語ぽこりぽこり』小学館、2005、44-45ページ)
この比較のしかた!
まあ、オチは、要するに "elephant's-ear" というのはベゴニアのことであって、「象の耳」ではないぞ、視線を下に落とせ、ということなのだけど。