2010年12月3日金曜日

いろいろと勉強になる金曜日

中野達司『メキシコの悲哀:大国の横暴の翳に』(松籟社、2010)。ご恵贈いただいたのだ。先輩なのに、恐縮。

メキシコ独立から1976年のハニガン事件まで、米墨関係の社会史とでも言えばいいだろうか。テキサス・レンジャーやフィリバスター、ブラセロ・プログラムといった、ぼくも少しは扱わざるを得ない問題について色々と教えてくれる。

フィリバスター(スペイン語ではフィリブステーロ)とは、合衆国から南下、メキシコ以南の国々で革命を起こすことを目的とした人とその行為のこと。ニカラグアで大統領就任を宣言したウィリアム・ウォーカーが有名。ぼくはこれに反応した知識人たちの話をかつて書いたことがあるが、実は、ウォーカー前後に同様の行為がたくさんあったことは詳しくは知らなかった。というか、それが「フィリバスター」と用語化して言いうることだとの意識はなかった。ウォーカーへの非難のみがそういう意味合いを持ったのかと思っていた。これが用語化されるほどの現象であるならば、当然、それにもっとも苛まれたのはメキシコをおいて他にはない。ソノラ州のような北部の州にほかならない(たとえば、『野生の探偵たち』で語られるエピソードのいくつかは、そうしたフィリバスターに対する恐怖の記憶を伝えているように思えるところがある)。

テキサス・レンジャーは、テキサスの国境地帯の治安を守る司法官だが、これが、メキシコ人と見れば見境なく殺す。そのことの恐怖をもとに、反逆者としてのメキシコ系住民を称える民衆詩(コリードという)などが生まれるのだが、それの研究で合衆国におけるチカーノ研究の礎を築いたのがアメリコ・パレーデス。今福龍太の先生だ。この人が採録したコリードが、実は今でも歌い継がれて、録音されていることを知り、先日、注文したのだった。で、そのパレーデスらも引きながら、その後の研究の成果も踏まえて、中野はメキシコ系住民とテキサス・レンジャーの(そしてアングロ系テキサス人の)緊張関係を描いている。

ふむ。いろいろと勉強になる。なにしろぼくは、ある授業とあるシンポジウムで、このテキサス・レンジャーの記憶とルイス・バルデスの映画『ズート・スーツ』が通底しているという見解を述べたことがあったのだった。

そして「序」の次の一文を読むとき、このパレーデスの採取したコリードとの(そしてバルデスの映画との)パラレル関係が見出され、一気にフィクションと米墨関係の緊張とが結びつけられるはずだ。

 映画やTVドラマでお馴染みの「怪傑ゾロ」は、米国が獲得したばかりの頃のカリフォルニアを舞台とするフィクションである(時代などの舞台設定は作品によって様々ではある)が、ゾロのモデルとなったのではないかと考えられているメキシコ人がいる。その人物は、妻を米国人に陵辱された上に殺され、復讐の鬼となって神出鬼没で米国人を襲い、恐怖させたと云われ、米国に住むメキシコ人の間で、これも英雄譚として語られたものだった。(11-12ページ)

ほら。ゾロを読みたく、見たくなるでしょ?