ぼく自身の授業ではやっとジャームッシュの『デッドマン』を語るための準備が整い、他のちょっとお手伝いしている授業でギジェルモ・アリアガ『あの日、欲望の大地で』(2008)を終わりの10分ほどを残して鑑賞。うむ。わかってはいてもシャーリーズ・セロンよりもキム・ベイジンガーの方が若いと思い込んでしまうのはなぜだろう?
家に着くと届いていたのが:アルベルト・マングェル『奇想の美術館:イメージで読み解く12章』野中邦子訳(白水社、2010)。
あくまでもマンゲルだと思うのだが。マングェルでなく。でもまあ、『架空地名辞典』が彼の翻訳の最初だろうか? それ以来のずっとマングェルで表記されているからしかたないのかな。アルゼンチン生まれでスペイン語話者なのだが、英語で著作を出している。ぼくはこの人の本はスペイン語版で持っているものが多いが、これは持っていなかった一冊。
ジョーン・ミッチェル、ロベルト・カンピン、ティナ・モドッティ、ラヴィニア・フォンターナ、マリアナ・ガードナー、フィロクセノス、パブロ・ピカソ、アレイジャディーニョ、C-N・ルドゥー、ピーター・アイゼンマン、カラヴァッジョ。——さて、このラインナップからどんな全体像が描けるか?
各章にはエピグラフがついている。それがなかなかいい。
「よい物語とはもちろんすべて絵と思想からなる。それらがよく混ざりあうほど、問題はうまく解決する」(ヘンリー・ジェイムズ「ギ・ド・モーパッサン」)
「もしも、すべてが正しいとしたら、鏡から鏡へと、まったく虚栄が映らないとしたら、私は世界が造られる前に私がもっていた顔を探す。」(W・B・イェイツ「若く、年老いた女」)
などだ。そして極めつけ:「自分のカメラのレンズになってしまえば、もはや動けず、硬直したまま、干渉さえできない」(フリオ・コルタサル「悪魔の涎」)
コルタサルの「悪魔の涎」はアントニオーニの映画『欲望』の原作になったもの。ある日、写真を撮ったら、その写真の中で殺人事件が起きてしまった、という話……と思わせながら、実は語り手がカメラのレンズになっていた、という話。そのあたりからの引用。ぼくは凍りつく。固まる。カメラ・アイになり、しばらく右のページにあるモドッティの写真を見つめた。