2010年12月20日月曜日

フィクションの不自由と本当らしさ

教え子がエキストラで出るから見ろと言われ、TBSのドラマ『獣医ドリトル』というのを見た。最終回だった。教え子は、ああ、エキストラの悲しさ! よくわからなかった。

で、話は少しずれるが、ちょっと気になることがあった。

やたらとクールだけど偏屈な小栗旬演じる獣医の傍らで、直情的でやさしい看護士井上真央が成長していく(井上には少し小栗に対する憧れというか、恋心が芽生えている)というのがメインプロットで、小栗の友人で大学の助教の成宮寛貴とその先生石坂浩二などが獣医師会との軋轢を起こしているというのがサブプロットのドラマ。サブプロットの一要素として、獣医師会の重鎮國村隼に対して息子たちが反抗しているというエディプス的ドラマも展開されていた。

その最後の要素の話。國村隼が息子たちの反抗に気づき、次男の部屋に入って屋探ししていた時に見出した書き留め封筒。「東大医学部の願書」と驚く國村隼は、この子も俺を裏切り、獣医ではなく(人間の)医者になろうとしているのか、と落胆するというシーンがあった。

うーん、でもなあ……。別に医学部希望でなくとも、たとえ文系でも、国立大学進学を考えたことのある人なら、東大が学部別の入学募集でないことは知っているはずだ。いや、東大のことを知らなくても、願書を送る先が学部とは限らないということはわかるはずだ。「入試課」などの部署であるはず。つまり、これから出そうとする願書の、あらかじめ印刷された宛名だけを見てその封筒の持ち主(差出人)が「東大医学部」に志望しているかどうかなど、わかりようがないはずなのだ。

そんなわけで、このシーン、現実の観点、本当らしさvraisemblableの観点から言うと、不自然だ。

でも一方で、ストーリーの流れから言って、ここでこの息子が父の意志に反して獣医学部や農学部でなく医学部を志望しているらしいということがわかる要素がなければここの場面は成り立たない。ここは見ている者に、コールリッジの言う「不信の中断」を要求しても、少しくらい不自然でも、「東大医学部の願書」のセリフを吐かせなければならないというわけだ。それがフィクションの弱み。不自由。

別に「東大」でなければこの不信感は一段下がったと思うのだけど(そもそも東大に獣医学部はあるか?)、まあ何しろ医学会重鎮の息子の獣医学会重鎮の反抗的な息子の話。ここはひとつ、入るのが一番難しいと言われている「東大医学部」である必要があったのだろうな。この要素を決定するのも、いわばひとつの本当らしさ。フィクション内部での本当らしさの追求というわけだ。

うむ。難しいなあ……なんてことを考えていたから、教え子の姿を見落としたのではない……と思う。