2010年7月10日土曜日

考えるな、感じるのだ

一週間ほど前に洗濯機が壊れた。水が漏れるようになったのだ。だましだまし使ってきたが、やはり買い換えやむなしとの結論にいたった。

洗濯機に疎いぼくでも、近年ではドラム式、乾燥機つきが主流だということは知っている。そしてそういう機種が10万円以上することも知っている。予期せぬ10万円以上の出費は痛いな、などと考えながら出かけていった。が、いざ電気店に行ってみると、従来風のタテ型コンパクトで簡易乾燥機能つきなどという機種がそこそこ廉価で売っていることを知った。やはりぼくは洗濯機には疎かったのだな。

ロバート・クローズ『燃えよドラゴン』(1973)を久しぶりに観た。 "Don't think, feel" というあの冒頭近くのセリフを聞いた瞬間、ああ、そうだ、ぼくはこのブルース・リーの言葉をその後何度繰り返したんだっけか、と思い出した。

ブルース・リーのみに帰す必要はない。たとえばサルトルだって「考えるのではない、感じるのだ。思考は一気にやって来る」とかなんとか、それに類することを書いていた。そしてぼくは実にそのとおりなのだと深く共感したのだった。問題は、ブルース・リーにしてもサルトルにしても、そうして感じたことをアウトプットするしかたについて語らなかったということだった。ただしブルース・リーの場合、体での表現のしかたについては言っているが。

ある日、感じたのだ。去年、ゼミでアジェンデの『ゾロ』を読み、ついでに『ゾロ』の比較とか、ヒーローの苦悶とか考えながら、『アラン・ドロンのゾロ』を観たとき、これがマカロニ・ウエスタンの手法だということはわかった。『怪傑ゾロ』と『アラン・ドロンのゾロ』はウエスタンとマカロニ・ウエスタンの関係にあると。ウエスタンに比してマカロニ・ウエスタンの特徴は、敵を高いところから撃ち落とす快楽の発見にあると思った。感じた。『荒野の用心棒』の最後の決闘の直後のことを思い出したのだ。

でもやはり何か違う。『荒野の用心棒』の場合、血が描かれ、殺される敵の苦悶が描かれる。この生々しさは『アラン・ドロンのゾロ』ではだいぶ薄れている。トランポリンの多用や、敵を落下させるスペクタクルがカーニヴァル的に処理されているところなど、むしろジャッキー・チェンの映画を思わせる。それで、ではブルース・リーはどうだったか? と思ったわけだ。『燃えよドラゴン』が73年。『ゾロ』は75年。ジャッキー・チェンだともっと後の話になるので、順序が前後するから。

ぼくが確かめたかったあるシーンについては、やはり勘違い……記憶違いであったことが確認されたけれども、まあ何はともあれ、しばし、10歳のころにぼくは引き戻されたのだった。