2010年3月11日木曜日

もう一踏ん張り

ぼくもこれまで何冊か本を出してきた。著書や訳書など。作っている最中に嬉しくなる瞬間というのがいくつかあって、そのうちの1つが本の装丁が決まるときだ。シリーズものである程度枠が決められているものはともかく、たとえば『春の祭典』の編集者が、マグナムからこれを取ってきたと言って、キューバ革命軍がサンタ・クララ市で撮影した写真を見せたときなどは、涙が出そうになった。『ラテンアメリカ主義のレトリック』のデザインを見せてもらったときの興奮は、どこかウェブ上に残されているはずだ。

次の翻訳にこれを使おうかと思うとの連絡を受け、若いアーティストの絵を見た今日は、そんなわけで、幸せだ。

もうすぐだ。でもその前に校正に精を出さなければならない。

今日、気分転換に逆立ちしようとして、できなくなっていたことに気づき、愕然とした。力が衰えたというよりは、バランスの取り方を忘れていたのだ。おれもヤキが回ったな。

……壁の助けを借りた。

明日は後期日程入試。またしても監督に立たなければならない。受験生たちももう一踏ん張り。

前期日程の発表は昨日だったのだろうか? 会議と会議の合間にメールを受け取った。去年4月に、東大に落ちて外語のスペイン語に入学したはいいが、後期には休学して勉強し直し、再受験した学生が、どうやら受かったらしいと、別の1年生からの連絡を受けた。そのうちお祝いしましょ、と。

東大が再受験してまで行く価値のある大学かどうか、ぼくは知らない。外語が東大をあきらめてまで居残る価値のある大学かどうかも知らない。大学なんて、学生として在籍するにはどこでもいいと思う。受験勉強は不毛なことも多いと思うから、それに貴重な時間を費やす気になれる人の気持ちはわからないと同時に、敬意に値すると思う。不毛なことが多くても、知的刺激も多かろうから、悪いことばかりではないとは思う。

でもこうして、自分たちが居残ることを決心した大学に見切りをつけ、違う大学に行くことになった人物を祝ってやろうと言える人間は貴重だと思うし、その人たちとの関係を断ち切って、新たな環境に飛び込もうとする人物の心境は、どんなものだろうか? ……ま、今生の別れじゃあるまいし。それに二大学ぶんの友人ができるのだ。たぶん。贅沢なのだ。

「やっぱり勉強したくて」とその学生は、ぼくに休学を告げに来たときに言ったのだった。彼女が何を「勉強」したがっていたのか、ぼくは知らない。悲しむべきはわれわれなのかもしれない。高校生や入りたての大学生が思い描く「勉強」なんて、たいていの場合、間違えているに決まってる。彼/彼女は、その学問がどんな学問なのか、まだ知らないからだ。それがどのように彼/彼女の人生を変えうるか、本当には知らないからだ。「●●になりたい、そのためには△△を勉強したい」と考えて、その見通しが本当に正しかったとすれば、それは奇跡だ。でなければ、その高校生は確かにとても優秀なのかも。ぼくたちは入ったばかりの、たいていは間違えたヴィジョンを持った青年たちに、その方向に行かなくてもいいんだよ、ひょっとしたら君たちの行きたい方向は、ここかもしれないんだよ、と教えて差し上げなければならない。高校生上がりの大学1年生たちの世界観を覆すことができないとすれば、ぼくたちは敗北したことになる。

東大に入った学生というのは、ぼくが顧問を務めるサークルのメンバーだ。だから挨拶に来てくれたのだろう(休学届けの書類に判を押してもらうためではなかった)。それは嬉しい。だが、ぼくはそのとき、敗北感に歯ぎしりしていたのだ。

ぼくは歯ぎしりができないのだけど。