ポストに見いだし献本は:
清水透・横山和加子・大久保教宏編著『ラテンアメリカ 出会いのかたち』(慶應義塾大学出版会、2010)
先日定年退職した編者清水透氏の周囲に集った、慶應義塾のスペイン語スタッフ(兼ラテンアメリカ研究者+スペイン研究者)たちが、自らのラテンアメリカ研究とのかかわりを語ったもの。フィールド派の歴史学者たる清水氏自身のスタンスを借りた14名の語る主体とのかかわりにおけるラテンアメリカ。
散歩がてら近所の書店で買ったのは、
マルカム・ラウリー『火山の下』斎藤兆史監訳、渡辺暁、山崎暁子共訳(白水社、2010)
1930年代のメキシコ、クエラナバカを舞台にした傑作小説の新訳。リベラの絵の表紙が美しい。まさに小説が展開するその名も「死者の日」を扱った絵。
ところで、パラパラとめくって最後まで達したら、なんと、次に出るぼくのかかわる本の予告が打たれているではないか。ああ、いよいよなんだな。その前に「あとがき」の校正をしなきゃ。
と思ったら、何だか赤ペンが進まない。はて……?
翻訳の校正なら、まさにそれにさいなまれていたのだった。勝手知ったものだ。編集者が鉛筆で指摘した箇所に気を配りながら、原文を見て、ときには原文から離れて、日本語を声に出して読んで、よりよい表現を探し、あるいは間違いを正し、……
うーむ。しかしここには「原文」がない。困った、翻訳でないものの校正ってどうやるんだっけ?
別に初めての経験でもない。これまで数百ページ分も自分の書いた文章の校正をやってきているはずなんだけどなあ……。この仕事が終わった後も、休む間もなく次の著書(140ページくらい)の校正が始まるはずなんだけどなあ……。おかしいなあ……。
怒濤のような翻訳の校正の後に、翻訳でないものの校正のしかたを忘れたようになる。この現象を、人は何と呼べばいいのだろう?