2010年3月10日水曜日

1958

会議と会議があったので、大学に行った。帰ったら届いていたのが、ぼくの出身小学校の「創立130周年記念誌」。

「130周年」というのは中途半端な感じがしないでもないが、考えてみたら、「創立100周年」はもう30年も前だから、ぼくが高校生のころということになる。「110周年」でも、まだ学生だ。「120周年」もあったのかもしれないが、忘れた。で、「130周年」の今回、その記念式典の様子や、準備にいたるあれこれ、会計報告、現在の小学校の発行する連絡帳(?)などを載せた冊子を作ってこうして配布してきたという次第だ。

そういえば、何周年かの記念の寄付を募る郵便が来たので、体調がよかったからその日のうちにオンラインバンキングで些少ながら寄付したのだった。ぼくは多額の寄付をして地元に銅像を建ててもらおうと夢見るような野心家でもないが、さりとて学校なんざ忘れたね、といつまでも偽悪者をきどるタイプでもない(たぶん、120周年くらいまでそのタイプだったかも……)。今では大学とはいえ、仮にも学校関係者。将来、ぼくの勤める大学に入ってくる人物が輩出されないとも限らないじゃないか。ましてや今回、寄付を募る会計担当が、ぼくの同期の地域の郵便局長とあっては、少しくらいなら寄付したっていいじゃないか、と、その程度のノリで、その程度の額を寄付した。

でもなあ、まさかそれで寄付者一覧表の第10番目にぼくの名が載るなんてなあ、ちょっと参ったな。これじゃあまるで最多額寄付者か何かみたいじゃないか。そんなことまで望まない程度には、まだちょっと偽悪者なんだよな。

それはともかく、明治30年以降の名簿で確認できる限りの卒業生の一覧もあった。卒業生の合計が、表題の数字。1958人。130年もの歴史を誇る学校の総卒業生数としては、なんともかわいらしい数字だ。

明治も20世紀に入ってからは、卒業生の数はわりと多い。大正、昭和の戦争直後くらいまでは20人代は普通で、30数名、多ければ50数名のときもあった(15年戦争というのは、こうした田舎の学校ですら見て取れるような人口爆発の結果だったのだろうな)。祖母の卒業した明治40年(1907)の27名、母の卒業した昭和18年(1943)3月の19名は、前後では少ない方だ。

いわゆる「団塊の世代」の出現による増は、この学校では見られなかったようだ。昭和も40年代に入るころには漸減、ぼくの生まれた翌年、昭和39年の31名以後、20名を超すことすらまれになっている。

ぼくの兄の代、つまり2つ上が13名、そのさらに1つ上が11名。でもその2学年を挟む2つの学年は9名と8名。ぼくの代が11名で、その後、7名、7名、7名と続く。ぼくより4年後輩、昭和55年卒業がやっと10名を数えたきりで、以後、毎年卒業生は一桁だ。0名の年が3回。1名という年はないが、2名なら何度かある。

これが僻地と呼ばれる地域の、小学校の現状だろうな。もちろん、2つの学年が1つの教室に学ぶ、複式学級というやつだ。ぼくの落ち着きのなさはそこではぐくまれた。