2016年9月19日月曜日

パラリンピックの後に

この間『サンチャゴに雨が降る』なんて映画の話をしたと思ったら今度はこれだ:

福嶋伸洋『リオデジャネイロに降る雪――祭りと郷愁をめぐる断想』(岩波書店、2016)

今年の7月刊だから少しはリオデジャネイロでオリンピックがあることにあやかろうという気持があったのだろう。たとえ著者本人にはなくとも、出版社には。で、僕もたいがい天邪鬼なもので、オリンピックも終え、パラリンピックが閉会した後に、この本の記録をアップするのだ。

魔法使いの国の掟』の福嶋伸洋の第二作はリオでの留学時代に行き交った人々、体験した街の思い出と、そこにを巡る音楽や文学の話などを綴った短い文章の集成だ。ひとつひとつの文章が大半は3ページばかりなので読むリズムができる。ましてや福嶋さんの文章は美しい。

本のタイトルにもなった表題作(というのかな? 「リオデジャネイロに降る雪」というタイトルのエッセイ)は実にしゃらくさい。ヨゼフィーネというドイツ人と知り合ったと「ぼく」は言う。他の学校仲間から彼女はベルリンの出といっても東ベルリンじゃないかとの予測をつきつけられたという。その彼女が12月のクリスマスの時期になってもリオに雪が降らないことへの不平を述べたという。後に「ぼく」は1920年代にリオに滞在した堀口大學が、ブラジルの詩人はフランス人の真似ばかりしてふりもしない雪の詩なんぞばかり書いていると証言したという話を思い出す(これについては、別のエッセイに詳しく書いてある)。そして結ぶのだ。

いまのぼくだったら、イギリスの詩人ジョン・キーツの "Heard melodies are sweet, but those unheard are sweeter" (耳に聞こえる音楽は美しい、だが聞こえない音楽はそれよりも美しい)という言葉に倣って、「見えない雪は見える雪よりもきれいだ」と、あの十二月の彼女に言いたい気がする。(108)

と。

な? 実にしゃらくさいだろう? 洒落くさいのだよ。素晴らしいのだ。ちくしょうめ。同じく雪の降らないメキシコについて、「DFに降る雪は……」とか言いたくなるじゃないか。(そういえば、ええ、僕だってメキシコ市について書きますよ)

けれども、そんな洒落のめした構えを突き破って、学生・福嶋伸洋のリオ体験にとっていちばんの自己覚醒の瞬間は指導教官ヴェラとの対話だろう。どうしてブラジルに来たのか訊ねられて福嶋さんはボサノヴァが好きだからだと答えたという。ヴェラの反応:

「わたしもボサノヴァは好き」と言った。リオっ子の彼女がボサノヴァを好きではないなどということがありうると、ぼくには想像できなかったことも知らないまま。「ジョアン・ジルベルト、ペレ、クビチェッキ。ブラジルが幸せだった時代の音楽……」。
 数々のボサノヴァの詩に描かれた楽園のようなリオデジャネイロをただ“見つける”ためにそこにやってきた二十三歳のぼくには、幸せでなかった時代のブラジルを見据える心構えはできていなかった。(51 下線は引用者)


この背理法(と言えばいいのかな?)にははっとさせられる。「好き」という答えが「好きではない」という選択肢の可能性を宿していることに気づいたときに、自身のユートピア探しがディストピアの発見になるかもしれないと気づく瞬間。どこか外国の都市で住み、学んだことのある者たち誰もが体験するかもしれないし、あるいはしないまま終わるかもしれない瞬間。体験した者が必然的に抱くことになるはずのアンビヴァレントな土地への愛。あるいはその愛はブラジル人たちの言う(そして本書でも何度か説明される)郷愁saudadeに似ているのかもしれない。