1冊は季刊なので、「今月」というのは当たらないかもしれない。季刊『kotoba』2011年秋号(コトバ第5号)には「ノーベル文学賞作家が語る 言葉のリアリズム」(訳・解説 立林良一)(160-165)として、京都外語大での講演の記録が載っている。京都の会はぼくは聞けなかったので、まずはこちら。
英語と同じことがスペイン語でも起きています。英語にも互いに大きく異なる変種が存在しますが、文学作品の大部分は、その共通性の基盤の上に成り立っています。そのように書くことはスペイン語作家にとって、文学的というよりは道徳的義務と言ってよいと思います。(165)
というのが、いわば結論で、そのために、ガルシア=マルケスから始まり、ボルヘスやルルフォ、そして自分の例を出しながら、さまざまな変種を超えて、世界中のスペイン語話者が読むことができるような言語を編み出すことの重要性を説いている。
自分自身の例として『緑の家』におけるピウラとアマゾン川支流密林地帯の言語的対立や、『世界終末戦争』のカヌードスの反乱農民と共和主義者たちの言語的対立(しかもポルトガル語だ!)を、世界中のスペイン語話者の理解可能なしかたでいかに表すか、それが問題だったのだと。
そういえば『緑の家』では、アマゾンから連れてこられたボニファシアという女性に対して、彼女を連れてきたリトゥーマの仲間たちが、ピウラの、その中でも1街区であるマンガチェリーアの言語と彼女の言語がいかに違うかを説いて聞かせるシーンがある。たとえばろばをどう表現するか、その差異が浮き彫りになる(木村榮一は「ろば」と「馬っこ」と訳していたように記憶する)。続いて言語の対立(多様性)を都会と田舎の生活様式の差に帰結させてボニファシアを都会に馴染ませようとするリトゥーマと、土地柄の差異だけに回収してリトゥーマのしかける支配を逃れようとするボニファシアの対立が生まれ、そこからピウラでの章のストーリーの重要な転換点が記される章だ。多様な地方語をリーダブルな普遍語に書き換えることは、かくも緊張に満ちたものになるのだという例といえるだろうか。
文芸誌『すばる』10月号には「文学への情熱ともうひとつの現実の想像」(150-165)と題して訳・解説 野谷文昭で、東大での講演録が掲載されている。これについては、ぼく自身も書いた……んだっけ? お忍びで行ったから口をつぐんだのだっけか? 人類学者フワン・コマスに同行した密林への旅、『緑の家』が誕生したことで名高いその旅から生まれたもうひとつの傑作、『密林の語り部』(岩波文庫から近々、復刊)の誕生について話した講演だ。