取り寄せたまま観ていないDVDがいくつかあるので、観なきゃなという気になり、まずは、この時期なだけにこれを。
フランシスコ・ロンバルディ監督『囚われの女たち』(ペルー、1999/パイオニアLDC)
「我々に奉仕せよ!」とか「復讐か、恋か。美しい奴隷の誘惑」、「緊迫のエロティック・サスペンス」などと謳っているが、これはマリオ・バルガス=リョサ『パンタレオン大尉と女たち』Pantaleón y las visitadoras(1973)の映画化作品。
ペルーのアマソニーア地方で若くて性欲を持てあました兵士たちが地元の女性たちをレイプする事件が相次ぎ、頭を悩ませた軍が、士官学校を主席で卒業した真面目な軍人パンタレオン・パントハに命じて、兵士たちの性欲処理の任務をさせる。民間人のふりして娼婦たちを派遣するという任務だ。真面目すぎるパンタレオンは、あまりにもうまくやってのけたものだから、やがて地元のラジオ局の告発を受けることとなり、なにしろ秘密の任務なので軍も知らんぷりを決め込み、パンタレオンは追い詰められていくという話。原作は皮肉とユーモアのきいた短めの長編小説だ。それの映画化作品。
まあイサベル・アジェンデの『愛と影について』の映画化作品に『愛の奴隷』などというタイトルをつけた前科のあるパイオニアLDCのこと、誤解をわざと狙っているかのようなコピーのつけ方には、今は目くじらは立てるまい。画質の処理なども、もう少し丁寧にやっていいんじゃないか、という文句も言うまい。お手軽にソフト化したかったのだろう。しかし、原題にもあるvisitadoraを英語風に「ビジター」と訳してしまう字幕翻訳種市譲二の語感はどうかと思うな。いや、きっと、実際、シナリオの英訳から翻訳は作られたのだろう。でもそうであったとしても、「ビジター」はない。サッカー・チームじゃないんだから。せめて「慰安婦」くらいの訳語は使ってほしいもの。
さて、原作の原書も翻訳(高見英一訳、新潮社、1986)も手もとにない。研究室だ。読んだのもだいぶ前の話。だから、正確に確認はできないけれども、脚色は思い切ってなされており、好感が持てる。原書は73年で、パンタレオンは報告書をタイプライターで書いているはずだが、1999年作品の映画ではPCのワープロソフトを使っている。携帯電話も登場し、現代的だ。慰安婦ビジネスの背後にパンタレオンがいることを突き止めて告発するのがラジオのパーソナリティであることは変わりないけれども、人気の娼婦の葬儀をTVが中継している。TVが加わることによってパンタレオンはTV以後の時代なりの追い詰められ方で立場をなくしていく。
もちろん、70年くらいの話だとして歴史的に描写することもできただろうが、アクチュアルであることを選択したのだろう。であればやっぱり、もう少し丁寧に画像の処理をしてほしかったとも思う。パイオニアLDCに願うべきなのか、発売のクロックワークスか?