ところで、はじめてTVで観月ありさを(そのたたずまいを)見た時には、この人は誰かは特定できないけれどもある種の少女漫画家(たとえば吉田まゆみ)が生み出した人間だと分析して、友人たちから「?」「?」「?」と言われたことがある。たとえば和久井映見を見た時にこの人は『夏子の酒』を演じるために生まれてきた人だとつぶやいては、実際、後にその漫画作品がTVドラマ化されたときに主役を演じたというのに、その時点でそんなことを予見するはずのない友人たちから同様に疑問符を突きつけられたことがある。
菊地 (……)『愛と誠』のいちばん最初の映画化とか、『ドカベン』の映画化を考えると、人間というのはマンガに似せられるわけがない。人間のほうが線が複雑で、描線が少ないマンガの輪郭線ということを考えたときに、人間がマンガに似るわけがないから、マンガを映画化すると必ず生々しく気持ち悪くなる時代があった。だけど、いま『ヤッターマン』の実写と『ヤッターマン』のアニメはまったく同じで、人間がやっているにもかかわらず、同じ輪郭線で動いている。あるいは少なくともそう見える。あと、ほしのあきみたいに、フィギュアを逆に人間化したみたいな人も出てきて、実物とリアルが、少なくともオブジェクト・レベルで逆転してるという話になって。
大谷 で、自分はそこに参加できないと認識しちゃうと、圧倒的な屈辱感と敗北感が生まれるんじゃないか、という説だったんだ。格差があるとしたら賃金の格差じゃないんだと。(菊地成孔、大谷能生『アフロ・ディズニー――エイゼンシュテインから「オタク=黒人」まで』文藝春秋、2009、270-271)
なんて一節を読むと、ぽんと膝を叩かずにゃいられない。ぼくと同い年の菊地などぼくよりはるかにマンガに描ける人間であるのだから、ぼくとしてはその「格差」に歯ぎしりせずにはいられない、と思いつつも、膝を叩いているわけだ。映画における映像と音のずれなどを扱った慶応での講義の活字化。後期の授業の準備のためにもとめくった次第。