2011年7月29日金曜日

秋が来た?

スーパーにナシが置いてあった。ナシは好きだ。ナシと聞くと秋になった気がする。

ナシをワインの横に置いてみた。

ナシ、ワイン、と並べてみると、必然的に、山梨を思い出した。

勝沼のぶどう祭りに行きたいと思った。学生のころ、新作のワインと牛の丸焼きが振る舞われているぶどう祭りの映像(静止画だったか動画だったかは覚えていない)を見て、行きたいな、と思ったことを思い出した。

行きたいな。

このワイン(山梨のものではない)、今日、開けられる運命にある。

2011年7月27日水曜日

「あるある」なんてないない

ツイッターのTL(タイムライン:フォローしている人物のツイートがすべて時系列順に表示される)上で、誰かが、自分のTL上に「#外大あるある」があふれている、と書いていた。

「#」はハッシュタグと言って、この形にすることによって、同テーマの検索がしやすくなるということ。つい先日までハッシュタグは日本語ではつけられなかったのだが、最近、日本語ハッシュタグが可能になった。検索欄に「#外大あるある」と打って検索すると、このタグをつけたツイートが表示される。

で、ツイッターには「トレンド」という欄があって、最近よく書かれたり検索されたりするキーワードが紹介されているのだが、気がつくとそこに「#北海道あるある」とか「#漫画家あるある」なんて語が並んでいる。

豊崎由美は自分のツイッターで、日本語ハッシュタグが可能になったことによってTLが大喜利の場と化していると書いていたが、まったくそのとおり。

ところで、しかし、「あるある」ってなんだ? ぼくにはまず、それがわからなかったのだ。しばらく読んでいて、ああ、つまり、「あるある、それってあるよね」と共感できる話題ということだと理解した。「読んでいる者、聞いている者の同意、共感を誘う日常トリビア」、とでも定義すればいいのだろう。

……でも、ところで、ぼくの語感にはその「あるある」を「あるある」と言いながら納得する感覚はないぞ。いったいこの語はどこから来ているのだ? 

で、こんなとき頼りになるのがJapan Knowledge。 http://www.japanknowledge.com/ 「あるある」で引いてみたら、「亀井肇の新語探検」や imidas などのリファレンスに「あるある」にまつわる項目がいくつか出ていた。

まず、80年代に「あるある族」というのがあったらしい。雑誌やTVなどで紹介された飲食店などに出かけて行っては、行ったことが「あるある」を自慢する人々。バブルの崩壊とともに消滅した、と亀井肇は定義している。

次に、「あるある系(芸人)」というのが、最近の流行だと、2003年の時点で亀井は記している。日常に見受けられる、共感を誘うできごとや現象をネタに笑いを誘う芸人たちの芸風のことだと。たぶん、今使われている「あるある」の意味だ。テツ&トモや永井秀和といった人々がこの系列に属すると。

そして、2006年には「あるある探検隊」という語が新語・流行語として imidas に登録されている。こちらは「レギュラー」というコンビのネタとしてだ。いまや「系」ではなく、ネタそのものの名となった。

一方で、2007年には「あるある大事典」というTV番組が情報を捏造したとかで、大きな社会問題になったらしい(覚えてないなあ)。ということは、そういう名の番組があったということで、つまり、「あるある」という語は(このTV番組における意味は知らないが)、こうして2000年代に入ってから定着していったということだろう。繰り返すが、ぼくにはその語を受け入れる感覚はない。80年代に忘れられた、ちょっと違う意味の「あるある族」の行方も気になるところ。

てなことを考えているのは、翻訳の途中、まったく何のことだかわからない一文に出くわし、逃避したくなったからだ。わからなくなるとツイッターに走る。#翻訳家あるある。

2011年7月26日火曜日

prueba

仕事にはフェティッシュがつきまとう。

大学の教室の隅の佇まいを好きだと思えなければ、大学の教師なんてやっていられないことがある。中身もともかく、書物の手触りにぞくっとする経験を持ったことがなければ、読書を仕事に選ばなかっただろう。

で、びっしりと赤の入ったゲラを愛おしく思うことがあるからこそ、著書や翻訳書を出す気になれるのだ。

今日、10月に出版される予定の小説の翻訳、初校ゲラが送られてきた。こんなふうに赤を入れながら仕事をしている。

仕事に疲れると散歩に出る。散歩に出ると本屋に立ち寄る。本屋に立ち寄ると本を買ってしまう。

田澤耕『ガウディ伝:「時代の意志」を読む』(中公新書、2011)

「これまでの本の多くは、ガウディとその作品を時代や社会から取り出して扱ってきた。ならば、ガウディを元の場所に戻してやったらどうだろう?」(i-ii)副題の「時代の意志」とは、ミース・ファン・デル・ローエの言葉。エピグラフに挙げられている「建築は、空間に表現される「時代の意志」である」と。

それから、吉見俊哉『大学とは何か』(岩波新書、2011)

大学は中世からの制度ではあるが、実は近代になってから生まれ変わっていること、そして大学はメディアであること、そのことを踏まえて大学教育の根幹であるリベラル・アーツはどうあるべきか、などを論じたもの。大学はメディアである。いかにも。

2011年7月25日月曜日

悲報

昨日の早朝、というよりも一昨日の深夜、外語の大学院生がひき逃げされて死んだというニュースがあった。苦学生で、かつワールドミュージックの雑誌を自ら発行するような行動的な逸材だったらしい。ぼくは直接の知り合いではないが、知り合いの学生たちの中には親しい者もいたようで、そんなひとりのブログ記事などを読んでいると、泣けてきた。若いやつを殺すなと言いたいな。ひとりの人間がちゃんと生まれて、才能を伸ばしながら育つなんて、奇跡のようなことなのだから、それを断つな、と。

本人のブログ  http://ameblo.jp/hakusann-eki/

と、彼の雑誌に記事を寄せたぼくの知人のブログ。
  http://blog.livedoor.jp/louie19860704/archives/52027987.html




ぼくはどうやら風邪のようで、喉が痛く、熱もあるのか、少しふらつく。

冷製スープ第2弾でヴィシソワーズを作った。

そして、後期の授業で読む、Bernardo Atxaga, Siete casas en Francia (Madrid, Alfaguara, 2009 / 2010) 2010年のポケット版。コンゴが舞台になっているらしい。同じくコンゴを舞台にしたバルガス=リョサの『ケルト人の夢』などとも並べて読みたくなる。


2011年7月24日日曜日

かぶるからかぶらない帽子。かぶらないためにかぶる帽子

着たくたって着られない服がある。似合わないと思うからだ。

で、ぼくは帽子は似合わないと思うからほとんどかぶらない。しかし、夏になると最近では髪の保護も少なくなってきた頭を守るために帽子でもかぶろうかという気になる。ハンチングやレイン・ハットを盛夏にはたまにかぶる。

ところがどうにも似たようなハンチングをかぶっているやつが周りにいる。比較的親しい仲にいる。

困った。

こういう現象を最近の人たちは「かぶる」というからよけいに困る。ダブること、重複すること、同じものを着たり持ったりすること、なんでもかんでも「かぶる」だ。つまりぼくはその友人と帽子が「かぶってる」のだ。

いや、ぼくは帽子をかぶっているのであって、帽子がかぶっているのではない。

やれやれ。若い衆の言語の乏しさにはついて行けないぜ。

……いや、この語法を広めたのは決して若い衆ではないのだが。つまり、ぼくは今、「若い衆」を不当に非難してしまったのだが。……すまん。

ま、ともかく、この単語を聞くたびに、ぼくなぞは男性週刊誌の裏表紙などに載っている包茎手術を勧める美容整形外科医院の広告の、タートルネックの青年のわびしい表情を思い出していけないという話は、以前に書いた(だから、「若い衆」を思い出してしまったんだな、きっと)。だから繰り返さない。

そんなわけで、かぶらないために……いやかぶらないでかぶるために、麦わら帽子。かぶれることはあるまいが、これもだれかとかぶるのか? いや、だから、ぼくがかぶるのだってば。

ところでこれは麦わら帽子なんだが、……まさか、ストローハットと言うんじゃあるまいな? 

やれやれ。

2011年7月20日水曜日

そうそう

これがL.L.Beanのトート・バッグ。MサイズとSサイズの差。この間のサイズが欲しいというのがわかってもらえるだろうか? 

東大と京大には世界文学があるらしい

で、まあ授業も終わり(今日は会議が怒濤のごとく)、土曜日にはオープンキャンパスで模擬授業をしなければならない。スペイン語の授業ではなく、総合文化コースの授業の代表としての模擬授業だ。さて、何をしたらいいのだろう? 

という思いからだけでもないのだが、こんな2つを対比させたりもしている。
池澤夏樹『世界の文学をよみほどく:スタンダールからピンチョンまで』(新潮選書、2005)
辻原登『東京大学で世界文学を学ぶ』(集英社、2010)

後者については既に紹介済み。そのタイトルのとおり、東大での講義を本にしたもの。前者はその5年前に出た本。さらにその2年前2003年の京大での講義を本にしたもの。

うーむ。京大やら東大やらの日本を代表する大学では世界文学が読まれているらしい。池澤も辻原も「世界文学」を、たとえばダムロッシュのように明瞭に定義(文学として読まれること、翻訳によって流通すること)はしていないが、近似性と独自性を発揮していて、読み比べると面白い。二人とも自作も語っている。一方が『アンナ・カレーニナ』を嫌いだといいながら紹介し、今回はやめておくとした『ホヴァリ―夫人』を他方が扱っていたり、池澤が『百年の孤独』を挙げれば辻原がボルヘスやコルタサルを扱う……うむ。読み比べると面白い。

さあ、ではこの「世界文学」的流通を考えながら、他方でスペイン語圏に足を留めてみよう。それがぼくらの大学の特徴ではないか。そう考えたときぼくらが見出すのは『ドン・キホーテ』の、『ドン・フワン』の翻訳による流通とジャンルの壁を越えての流通だ。文学として読まれ、文学として翻訳され、文学の運命として多ジャンルに取り込まれた『ドン・キホーテ』。まずはミハイル・バリシニコフ版『ドン・キホーテ』(アメリカン・バレエ・シアター)あたりから観てみようか……

……ってな授業でもやればいいのかな? 

2011年7月17日日曜日

L.L.Beanのトート・バッグ

通常使うカバンに荷物が入りきれないことがある。授業のための資料や教材などが多めになるときだ。そんなとき、もうひとつカバンを持ち歩く。通常のものは背負う(リュック)か掛ける(ショルダー・バッグやメッセンジャー・バッグ)かしているので、2つめは手持ちのトート・バッグにする。

今年度は大学生協で売っていたものを使っていた。しかし、荷物の量が少なかったりするとぐったりしてしまうものだった。それに何より、大学の名前入りだから、非常勤先などに持っていくと、他流試合であることがばれてしまう。道場破りかと胡乱な目で見られかねない。
そういえば、L.L.Beanのトート・バッグを持っていたのだったと思い出した。ここのトートはとても厚手のキャンヴァスを使っているので、くたっとなることがない。……で、引っ張り出してみた。……ちょっと大きかった。一回り小さめのやつが欲しいと思った。

一回りどころか、二回りくらい小さいものしかなかった。が、これで充分だろう。そう思って注文したL.L:Beanのトート・バッグ(ボート・アンド・トート)Sサイズ。しっかりと立っている。どうだ! (手前はすっかりしなだれたTokyo University of Foreign Studiesのロゴ入りの大学生協トート)

もう授業は終わったのだけどな……

2011年7月15日金曜日

だらだらと歯止めなく隠語を流す

九州電力が玄海原発の再開のために開いたケーブルTVでの説明会番組、これに寄せられる意見の中に、九電から指示を受けて社員が出したものがあったとのこと。これをしてネット上でのニュースが軒並み「やらせメール」と報じていた。昨日の夕方、夕食の準備をしながらTVのニュース番組を流していたら、やはり「やらせメール問題」と言っていた。

いいたいことは2つ:

「やらせ」とは、ぼくが知る限り、「過剰演出」のこと。ドキュメンタリー番組などで再現ドラマのように演じさせておきながら再現ドラマと名乗らないこと、のはず。会社からの指示で社員が自分の意見ではない意見のメールを送ることは、果たして「(過剰)演出」なのだろうか? もっと重大な何かを意味してはいないだろうか?

2点目:「やらせ」とはあくまでも放送関係者の使うジャーゴン、俗語であって、ニュースなどに無前提で使える単語なのか? 

気になった。チャンネルを回すと、NHKではさすがに「やらせ」という単語は使っていなかった。「メール問題」だった。他の民放局(たぶん、日本テレビ)では、「いわゆるやらせメール問題」と言っていた。まだ、かろうじて「やらせ」という単語が俗語だとの意識があるようだった。

何よりも情けないのは今朝の『朝日新聞』。見出しには「 」すらつけずに「やらせメール」と出ていた。本文ではまだしも「 」つきだったけれども。

ぼくには職業柄、アカデミック・ライティングのオブセッションがあり、俗語と思われるものを俗でない場所で使うことへの激しい反発がある。かりにもニュースにおいて自分たちの業界の裏のジャーゴンを使うことに対する自己規制のかからないメディアへの軽蔑の念がある。それをだらしなく広めてしまう他メディアへの憤りがある。(内側の事情と社会性とを区別できない幼児的なメディアや、その幼児の幼児性を認めるばかりか、迎合すらするメディアに何が期待できるというのか?)

何よりこの問題、「やらせ」つまり「過剰演出」というレベルのみではなく、上に述べたように、もっと重大な論点を含むように思うのだ。会社は従業員の思想信条に反する行動を強制しうるか、という問題。経済は倫理に先んじるべきか、という問題。「やらせ」なんていう俗語で表現しているようでは、こうした問題が隠蔽されるように思うのだ。「強制メール」、「無理強いメール」、「偽造投書」、「世論操作」、「思想統制命令」問題とでも呼んだらどうだろうか。

2011年7月14日木曜日

これでも夏を乗り切る。

また調子に乗って、今日も夏を乗り切るのに良さそうなもの。

キュウリのピリ辛和え。

と、キャベツのコールスロー。

ちょっと今、そろそろまた料理に意識的にならねばという時期なのだ。料理小説(?)の翻訳ゲラがやがて上がってくるというので

……なのか?