2012年6月10日日曜日

篠突く雨

日曜の朝、電話が鳴った。

母だった。

「こっちは雨だ。大雨だ」

沖縄・奄美地方が梅雨入りだと報じられたのはもうずいぶん前のことだ。そりゃあ、雨も降るだろう。大雨の降る日もあるだろう。が、母上、変なことを言い出した。

昔々、あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。森の狼が腹を空かせ、ふたりを食べにやって来ました。家の外から中の様子をうかがう狼に、おじあいさんとおばあさんの会話が聞こえてきました。

ばあさんや、世の中に〈降る〉と〈漏る〉ほど怖いものはないな。

ああ、おじいさん、本当にそうですねえ……

それを聞いた狼は、おじいさんとおばあさんが自分のことを恐れていないと知り、すごすごと帰っていきました。

……

なんだろう、この昔話? 知らないな。それとも母が即興で考え出したのか? 最近、雨漏りが激しくて家の屋根を張り替え、その代金を全額出した息子に対する屈折した感謝の表現なのか? それでせっかくできたわずかばかりの蓄えがなくなってしまったその次男坊への慰めの物語なのか? 

うーむ。わが母がこんな語り部であったとは、知らなかった……

南へ北へ

日が改まってしまったので昨日である今日、マチネーで劇を観た。

構成・演出 長塚圭史『南部高速道路』@シアタートラム

名前からわかるとおり、フリオ・コルターサルの短編の翻案だ。高速道路で渋滞にはまり、そのまま日が流れてそこに一種の共同体ができる、という不条理状況劇。原作はフランスが舞台だが、週末を田舎で過ごし、東京に戻ろうとしていた10組13人(+子供がひとり)の物語に翻案している。

傘をうまく使って立ち往生する車を表していた。複数の声を同時に響かせる作りがいい。真木よう子が思いのほか低くよく響く声で心地よい。彼女の過去が暴かれるという話でもないし、愛憎どろどろなわけでもない。ほのめかされるだけで多くを思わせる過去を背負った人々のにわか共同体が解体するまでの日々。

パンフレットに解説を寄せた外岡秀俊はレベッカ・ソルニット『災害ユートピア』を引きあいに出して、アクチュアルな解釈をしていた。

出演は、他に黒沢あすか、江口のりこ、梶原善など。

終わってすぐ池袋に立教大学ラテンアメリカ研究所主催、連続キューバ映画上映会。黒木和雄『キューバの恋人』の当時を関係者が振り返るドキュメンタリー、マリアン・ガルシア『アキラの恋人』、およびその後の寺島佐知子さん、+伊高浩昭さんのトークを。

年表を整えて順を追って話す寺島さん、その枠を逸脱して先取り、明快に話す伊高さんのコントラストが楽しいトークであった。

映画自体は既にDVDで観ていたのだが、とりわけ、『キューバの恋人』挿入歌に使われた(ガルシア=ロルカの詩に曲をつけた)Iré a Santiago が、映画が公開されなかったにもかかわらず合唱曲としてスタンダード化したとのエピソードが興味深く思われた。翻案との流通を巡る偶然の物語。

200人ばかり入るらしい会場は満員。キューバって人気なのだった。うむ。さりげなく『チェ・ゲバラ革命日記』でもかざしていればよかった。

2012年6月3日日曜日

帰宅

日本ラテンアメリカ学会第33回大会を終えて帰宅。

ぼくは今回、理事選で次点第2位、繰り上げで理事になった。一番やりたくない役職をやらねばならない状況に追い込まれ、その後、急転、2番目にやりたくない役職に就くことになった。

やれやれ。

「ロベルト・ボラーニョのアクチュアリティ」というパネルと文学についての分科会に出席。そうそう。ボラーニョ『第三帝国』のクライマックスは村上春樹を彷彿とさせるのだよ、などと思ったりしたのだった。

理事会でも、懇親会などでもつくづくと思うことがある。ぼくは本当に人脈がないな、ということ。知ってるはずの人にはじめましてと言われたり、……とほほ、である。

ま、もうすぐ50にもなろうとする身でありながら、人見知りだ、などと言っているのだから無理もないのである。

中部大学にはこんな彫刻があった。

2012年6月2日土曜日

新幹線の中で書く

昨日は卒業生を迎えたのだった。結婚する同期のカップルにメッセージを、とのことだったのだが、どうにもうまいことが言えずに、フラストレーションを抱えながら、焼き鳥など食った。

その間に届いていたのが、これ:エルネスト・チェ・ゲバラ『チェ・ゲバラ革命日記』柳原孝敦訳、原書房、2012。

一夜明けて、朝から新幹線などに乗っているのは、日本ラテンアメリカ学会の大会に向かうためだ。繰り上げ当選で理事に選ばれたらしいのだが、そしてその際に、やがて正式に招集がかかるが、この日の理事会に出ろ、と書かれていたのだが、その「正式な招集」とやらをぼくは受けていない。出なくていいのだな? 

やれやれ。

2012年5月30日水曜日

会議とデートの合間に映画

ウディ・アレン『ミッドナイト・イン・パリ』(スペイン、アメリカ、2011)

婚約者の父のビジネスに便乗してパリに来ているギル(オーウェン・ウィルソン)が、タイムスリップして彼の憧れの1920年代に行き、ヘミングウェイやフィッツジェラルド夫妻、ダリ、ピカソ、等々に会うというファンタジー。ハリウッドの脚本家でありながら小説を書くことを願い、婚約者の両親とソリの合わないギルが、ガートルード・スタインに原稿を読んでもらい、評価され、自分を取り戻していく。モディリアニやブラックと付き合っていて今はピカソの愛人となっているアドリアナ(マリオン・コティヤール)とは、恋に落ちるのだが、その彼女が理想と考える19世紀末、ベル・エポックのパリにふたりはさらにタイムスリップして……

この映画で何よりすばらしいのは出だしだ。たぶん、"Si tu vois ma maîre" という曲だと思うが、それが流れる2、3分の間、パリの異なる時間帯、異なる場所の情景を映し出すシークエンスは観客を引き込む。アドリアナはギルの小説原稿の書き出しにうっとりとするのだが、この映画自体がオープニングでぼくらをうっとりとさせる。

出だしは大事なのだ。

2012年5月26日土曜日

黒パン

去年のラテンビート映画祭での上映を見損なっていたが、一般公開を前に、見る機会を得た。アグスティー・ビジャロンガ『ブラック・ブレッド』(スペイン/フランス、2010)

スペイン内戦やその直後を舞台とし、子供を主役に据えた映画は日本でも比較的受け入れられてきた。これもそのひとつの新たなバージョンなのだが、なかなかに複雑な背景をしくんで面白い。

内戦後、アカ、すなわち共和派の父ファリオル(ルジェ・カザマジョ)がフランスに逃亡することになったので、親戚の家に預けられたアンドレウ(フランセスク・クルメ)が、実は父が逃げているのは政治的理由からではないかもしれないということを発見していく、と言えばいささかおおざっぱに過ぎるストーリーの紹介になるだろうか?

内戦による政治的対立、および子供の目から見た不可解な大人たちの過去、というテーマのみでなく、性的マイノリティーを許さないマチスモ的価値観、小村落内での村八分の仕組み、政治犯やマイノリティなどが隠れて住む村はずれの洞窟についての噂とそれがもたらす恐れ、サナトリウムの中に隔離された人間との交流とその存在が想起させる母の過去、貧困ゆえに節を曲げざるを得ない大人の事情、幼い女の子の性的虐待、淡い初恋、……などが取り入れられたストーリーは、かといって長過ぎない。子供が主人公なので、決断をして大人になるという物語には違いないのだが、その決断の後味の悪さが実に映画的で心地よい。最後の母フロレンシア(ノラ・ナバス)の告白は必ずしも必要なかったのではないかと思うのだけれども、それはまあ好みの問題。面白いことに変わりはない。

原題はPa negre。「黒パン」だ。パンの色の違いが階級差を表すのだという。黒パンしか食べるなと言われたアンドレウが、町の有力者マヌベンスさんの家で白パンに目を眩ませるシーンに反映されているこの価値観も、重要。ちなみにこの原題はカタルーニャ語で、セリフもほぼ全編カタルーニャ語によるもの。

2012年5月25日金曜日

復帰

突然のカルロス・フエンテスの訃報に触れ、そのことについて何か書こうと思ったが、ケチがついた。

ある人物からヤクザまがいの恫喝口調で言いがかりをつけられたので、何か書こうとしたら自身を勘違いしたその愚か者(こういう手合いは本当に手に負えない)を非難しそうだった。そんなこと、考えるだに不愉快だから何も書かずにおいた。これだけで済ませるので精一杯だ。

そうこうしている間に、もうすぐ次の翻訳が出そうだ。

昨日今日は、毎年の恒例行事、オリエンテーション旅行に行ってきた。スパリゾート・ハワイアンズだ。昔の常磐ハワイアンセンターだ。『フラガール』の温泉施設だ。ここには2006年、それこそ『フラガール』の封切り直前くらいに行ったが、今回は、震災後の復興のシンボルということで、行ってきた。前回と違い、ショウも見てきた。

やれやれ。ともかく、一番忙しい木・金が、授業なしですんだ。

2012年5月13日日曜日

「あと20年」の思想

ツイッター上でフォローしているある方(ぼくより少し年上)が「わたしの人生、あと20年くらいかな」と、ふとつぶやいておられた。

それで思い出したのだ、50代半ばのころの牛島信明先生のひとことを。酒を飲んで一緒に中央線の電車に乗っていたとき、「ぼくもあと20年ほどしか生きていられない」とおっしゃっていた。ライフワークということを考えるのだと。『ドン・キホーテ』の訳だけは仕上げておきたいのだと。

ほどなくして『ドン・キホーテ』新訳を完成させた先生は、しかし、それからやはりたいして時間をおかず、鬼籍に入られた。深夜の中央線車内で「あと20年」とつぶやいてから、10年も経っていなかった。

昨日読んだ由良君美も60そこそこで死んだのだった。ぼくより10歳上の福井千春さんは先日亡くなった。

ぼくもそろそろ、人生あと20年、という視点というか思想を持たなければならないのだろうな。先日、ある女子学生が「わたしがおばさんになっても……」と口にしたときに、ぼくは口ではそれは森高千里か、などと言っていたけれども、同時に頭の中では君がおばさんになるころにはぼくは死んでるかもね、と考えたものだけれども、そういう反射神経が働いたということは、ぼくももう立派にその思想を持っているということかな?

そういえば最近、生活をシンプルにしなければ、なんて考えているのは、意識せずして「あと20年」の準備を始めようとしているのだろうか?

実際には、20年どころか20日先も見えないのだけどな。ライフワーク、なんて考えも出て来ないな……ん? カルペンティエールかな? レイェスかな? いやいや、翻訳である必要はないのか。うーん……あれと、あれと……武田千香さんは幸せだ。15年かけて読んできたマシャードの翻訳が出たのだから……

それともあれか? こんな考えに浸るのは、39歳で死んでしまった男の文章の翻訳をもうすぐ出そうとしているからなのか?

2012年5月12日土曜日

連休は遠くなりにけり

最近の収穫。といって写す本の背景には再校に突入しているもうすぐ出る本などを置いているのだから、われながら、あざとい。

まず、ついに出た!

マシャード・ジ・アシス『ブラス・クーバスの死後の回想』武田千香訳、光文社古典新訳文庫、2012

めでたい。が、どうじに、光文社のこのピンクのシリーズは本当にピンクで十把一絡げにしている地域(英米、独、仏、露、伊以外)につめたい。この本なんて、原稿が手渡されたのはもう5年くらい前のはずだ(ぼくの渡したペレス=ガルドスなど、もう忘れられているのだろうな)。そのことを嘆くべきなのか、それでも出たことを言祝ぐべきなのか。その間に国際語学社というところから別の人の訳で出版されているから、本当に「新訳」になってしまった。タイトルに示されるとおり、ブラス・クーバスという死者が自分の人生を回想するという、19世紀の小説にはなかなか珍しいのじゃないかと思われるファンキーさを有した作品だ。

エトムント・フッサール『間主観性の現象学 その方法』浜渦辰二/山口一郎監訳、ちくま学芸文庫、2012

エドムンドでもエドムントでもなく、エトムント、だ。

由良君美『みみずく偏書記』ちくま文庫、2012

四方田犬彦の『先生とわたし』による回想を読むまで、あまりよく知らなかったのだ、由良君美のことは(たとえばソンタグ『反解釈』の翻訳は、ぼくが学生のころは見当たらず、まず英語で読んだ。その後、ちくま学芸文庫版で読んだのだが、これは大勢による共訳で、あまり由良の仕事との印象がない)。なかなか面白そうな人だとの印象。四方田の本の後で、それが後押ししたのか、1冊か2冊、復刊したものがあったように思う。今回は文庫になったので、買ってみた次第。解説はさすがに彼を「酒乱」とした四方田ではなく、富山太佳夫。ずいぶんと強く感化されたようである。

そんなダンディでかっこいい由良センセイの本の読み方や、読んだ本の話などが収められた1冊。70年代のものが多いから、やはり田舎の中学生・高校生だったぼくなどはよく知り得なかったのだろうな。

さて、センセイ、「斜め読みは、わたしは原則としてしない」そうである。しかし、モノグラフならば、「序と第一章を読み、目次に戻り、重要な展開部に当る数章に狙いをつけ、さて結論に飛び、脚注と書目に目を通せば、もう分かってしまう」そうである。こういう、あまり明かしたがらない手の内をさらっと明かしてしまうところなど、なかなか好意を抱かせる。極めつけは「あとはその部門の研究史上、画期的といえるかどうか、文体がめでたいか否かを自分で評価し、頭に入れておけば良い」(267ページ、下線は柳原)

さらに、由良センセイ、ノートやカードは取らないそうである。

知識として大脳を富ませてくれるというより、知識以前の漠たる形で意識下に沈む事柄の方が多い。そうでないと読書はどうも愉しくない。マイケル・オークショットが言っていたように、そもそも人文系の学問を、知識を蓄えるためにするのは邪道である。いかに多く学び多く忘れるかが正道である。逆説的に言えば、わたしは沢山忘れるために沢山読む。だからカードにして整頓などしない。(169ページ)

かっこいいのである。

……? こんなことをちまちまとブログに書きつけるぼくなどは、つまり、せこいのである。

2012年5月6日日曜日

ああ、連休が終わっていく……

最近、これまでのシェーファーのに換えてペンケースに収まっているシャーペン。ラミーのスクリブル。伊東屋で6,000円台だったのが、Amazonでは3,000円台で買えたので。

シャーペン一本に5,000円も6,000円も出すなんて信じられないという反応をたまにいただく。大工がいいノコギリに金を惜しまないように、料理人が包丁に金を惜しまないように、われわれがシャーペンに金使ってもいいじゃないか。何十万も何百万もするわけじゃないんだから。

ぼくはやはり太くてある程度の重みのある筆記具が手に馴染むようで、これなど、少し短いかと思わなくもないが、でも実に使いやすい。

本当はこの下に写っている辞書(Ignacio Bosque, REDES: Diccionario combinatorio del español contemporáneo, SM)をフルに駆使してアルゼンチンの新聞に向けた文章を書かなければならないのだけど、そのためのメモなど取っているうちに、それに使っているこのシャーペンを、なんとなく自慢したくなったので……

そう。逃避だ。去りゆく連休を惜しんでいるのだ。