2011年12月13日火曜日

漱石をめぐるプルースト的記憶?

先日、関川夏生が『坊ちゃん』はずいぶん悲しい小説だと力説しているのを聞いた。「無鉄砲」の例として、冒頭近くにナイフのエピソードが出てくる。関川はそれを「切れないだろうというから『坊ちゃん』は親指を切るわけです、それが骨まで達したとある。このひとは危ない人ですよ」と言っていた。

気になったので、『坊ちゃん』、当該の箇所を見てみた。漱石というのはずいぶんとうまい書き手だな、と改めて感心した。

親類のものから西洋製のナイフを貰って奇麗な刃を日に翳して、友達に見せていたら、一人が光る事は光るが切れそうもないといった。切れぬ事があるか、何でも切って見せると受け合った。そんなら君の指を切って見ろと注文したから、何だ指位この通りだと右の手の親指の甲をはすに切り込んだ。幸いナイフが小さいのと、親指の骨が堅かったので、今だに親指は手に付いている。しかし創痕は死ぬまで消えぬ。(岩波文庫、7ページ、ルビを削除)

「骨まで達した」とは決して言っていない。「今だに親指は手に付いている」というのだ。唸らせるじゃないか。そしてこの小説が悲しいというなら、直後、「しかし創痕は死ぬまで消えぬ」の一文が悲しい。

この第1章、主人公が女中の清(きよ)に見送られて東京を発つところで終わる。ずっとプラットフォームに立って見送る清を見て、主人公が「何だか大変小さく見えた」と慨嘆するところで終わる。

ここを読んだ瞬間、ぼくははじめてこの小説を読んだ30年以上前のわが家の、ぼくが主に読書していた部屋のじめっとした感じや、西日の暑さを思い出した。ぼくにとってのコンブレーの屋敷のクローゼットの中だ。忘れている細部も多いというのに、この一文だけ(いや、もちろん、だけではなないのだが……)は、ぼく自身が自分が大人になったと感じた日の記憶とともに思い出したという次第だ。