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2018年9月1日土曜日

なぜフランス語でない?


昨日は藤田嗣治展@東京都美術館に行ってきた。

藤田の生涯をクロノロジカルにたどることのできる構成。時代時代で異なる作風は興味深く、とらえどころもないところ。戦争協力時代の記録画(『アッツ島玉砕』1943や『サイパン島同胞臣節を全うす』1945)が圧倒的であった。サイズの問題もあろうが、色使いも関係しているだろう。

絵のタイトルが日本語と英語で表示されていた。なぜフランス語でない? 

藤田がブラジルに旅した時、当時在ブラジル・メキシコ大使だったアルフォンソ・レイェスに会っている。レイェスは妻ともども藤田に似顔絵をデッサンしてもらい、それをうれしそうに自慢した。そんなことをレイェスの日記で読んだ記憶がある。余談だが。

写真はヴァレリー・ラルボーとレイェスの書簡集。

2016年7月3日日曜日

展覧会ふたつ

『第三帝国』が一段落ついたので、土日はいずれも展覧会に行ってきた。

まずは、ロメロ・ブリット展@池袋西武ギャラリー。

ブラジル出身でUSA(マイアミ)在中のポップアーティスト。マイケル・ジャクソンなどにも愛された作家だ。ディズニーのキャラクターとのコラボレーションもしている。こんな風に。

ハートをモチーフにした作品も多く、なるほどハートウォーミングな作品が多い。

日曜日は「アルバレス・ブラボ写真展――メキシコ、静かなる光と時」@世田谷美術館。

マヌエル・アルバレス=ブラーボのキャリアを総括的に振り返る192点。加えてアンリ・カルティエ=ブレッソンからのスペイン語の手紙やエドワード・ウェストンからの英語の手紙、種々の雑誌などの資料もあって見応えはたっぷり。後に約束が控えていたので、むしろ時間が足りなかったくらいだ。

世田谷美術館は以前、フリーダ・カーロ展もやっていた。メキシコへの目配りが利いているというべきか?

アルバレス=ブラーボに触発され、その後の食事の場所をモノクロで撮ってみた。


2016年6月5日日曜日

ガーデンマニア


なんちゃって。(写真左手の建物が美術館)

この展覧会は3月まで東京の国立近代美術館フィルムライブラリーで開催されていたもの。その図録にカルペンティエールの文章を訳したので、図録はいただいていた。3月は『第三帝国』の訳で忙しくしていたこともあって、京橋のその展示には行かずにいたのだ(僕にはそういうところがある。映画館に行かなくてもDVDでいいや、とか)。

ところが、今回、日本ラテンアメリカ学会で京都に行く僕のスケジュールに合わせ、6月からここでやっているというじゃないか。『第三帝国』の校正で忙しい身ながら、ついでだから見に行ったのだ。

となりが平安神宮だったので、そこも訪ねてみた。平安神宮には神苑、というのかな、周囲に庭園があって、庭園好きな僕としては、そこもめぐってみた。


京都の皆さん、ポスター展は7月24日までやってます。ぜひ。そして図録も、ぜひ。

2013年5月21日火曜日

「フランシスナカグロベーコン」も今は昔……


その昔、ポスターの最終校正を電話で伝えたとき、印刷用語としてのナカグロ(「・」)が伝わらず、「フランシスナカグロベーコン展」のポスターが出回ったのはもう30年くらい前の話。その時には存在しなかった新たな三幅対など数点を携えて、どうどうたるフランシス・ベーコン展。立派なものでした。

ぼくの頭には「フランシス・ベーコン」の名とともに常に「・」が浮かぶのだが、ベーコンの絵は異形と奇形、偏執と動きの他にも、確かに印象的な「・」が打たれていた。たとえば「自画像のための習作」(1976)などだ。

穴と動き、こそがベーコンだ。今回面白かった試みのひとつは、土方巽の舞踏「疱瘡譚」とそれにまつわる舞踏譜(そんなのがあるのだね)や、ペーター・ヴェルツ/ウィリアム・フォーサイスによる映像インスタレーション「重訳/絶筆、未完の肖像(フランシス・ベーコン)/人物像を描き込む人物像(テイク2)」などが展示されていたこと。

ベーコンの描線を表現するには、あのように動くべきなのだ、と、そういいたくなるのもわかる。

人がたくさんいた。火曜の昼だというのに。

所蔵展では、ジャクソン・ポロックの時には展示されていなかった(と思う)アンリ・ルソーやブラックが出ていた。ルソーの「第22回アンデパンダン展」は近代美術館の宝だ。

2013年5月1日水曜日

写真はデフォルメする


大学でいくつか仕事を仕上げ、行ってきた。


もちろん、ビクトル・エリセ『マルメロの陽光』(1992)でマルメロを描いていた、あの画家のことだ。「グラン・ビア」という、文字どおりマドリードの目抜き通りグラン・ビーアを描いた絵などで知られる(ザ・ミュージアムのページにはこの絵が掲載されている)。エリセは来日時、ロペスが(ジャスパー・ジョーンズらの)スーパー・リアリズムと比較されるのだなどといっていた。いかにも、実に写真を切り取ったようなリアルな筆致で有名。入場券になった「マリアの肖像」にしても、「グラン・ビア」にしても、写真かと見まがうほどだ。

が、ぼくはそれと意識してロペスの絵を見るのは初めてだと思うが(長崎県美術館に行ったときには「フランシスコ・カレテロ」は展示されていなかったと思う)、何と言うのだろう、特にマドリードを描いた一連の大きな絵など、息を呑むほどに写真的なのだが、近づいてみると、紛うかたなき油絵の筆致。なんだかその質感というか手触りというか、それがはぐらかされるのだ。

たぶん、このマジックこそがロペスの面白み。今回の展示品では「死んだ犬」(1963)や「眠る女(夢)」(1963)、奇しくもぼくが生まれた年に描かれたこの2点に集約される、不思議な現実感覚が驚きだ。

私が実際のモデルを前にしているとき、もし私が何かを描かなくてはならなくて、その写真を与えられたとしたら、そのプロポーションを写すのに、私は三〇分で済ませてしまうでしょう。私にとって最初はとても簡単なのです。私にとって難しいのは、光を当て、大きさを決めることです。まさしくそれは、写真が決して私に与えてくれないものなのです。(略)私が言いたいのは、写真を撮っても、写真はデフォルメするということです。写真はデフォルメします。経験から分かったのです。写真をこうして置くと、物が動き始める。(『アントニオ・ロペス――創造の軌跡』木下亮訳、中央公論新社、2013、144、145)

写真はデフォルメするのだ。絵とは異なる形で現実をデフォルメする。遠近法と光、色彩によってその現実を克服しようとしているロペスは、とても不思議な感覚を見る者にもたらす。

2013年2月19日火曜日

雪の上野で前屈みになるについて


六本木に行く前に上野に行った。

エル・グレコ展(東京都美術館)

クレタ島、ヴェネツィア、ローマ、トレードと各時代のエル・グレコの作品を揃え、肖像画、聖人画像、祭壇画などと章分けして展示。たとえば「ディエゴ・デ・コバルービアスの肖像」をエル・グレコのものとアロンソ・サンチェス・コエーリョのもの、2つ並べ、エル・グレコの特長を際立たせるなどの工夫も面白い。最終章は「近代芸術家エル・グレコの祭壇画:画家、建築家として」と題し、さすがに、教会での配置そのままに展示はできないまでも、実際にはこの絵はこんなところに描かれている、という説明つきで見せ、タブロー中心の近代絵画に慣れ親しんだ我々の感覚に問題提起している。

展示の意図を汲み、ぼくはたとえば、丸天井の天辺に描かれている「聖母戴冠」(1603-05)を前屈みになって見上げる恰好で眺めていた。きっと周囲はそんなぼくを胡乱な目で見ていたのだろうな。

ベルニーニ「聖テレジアの法悦」などに顕著だが、エル・グレコにも特徴的なのは、神秘体験をする者が首を傾げているということ(『裁かるゝジャンヌ』でのアントナン・アルトーもひどく首を傾げていた)。エル・グレコを観ていると、さきほどのかがむ姿勢でなくても、自然と首が傾いてくる。この後観た映画も、ぼくは首を傾げながら観ていたかもしれない。