2020年12月14日月曜日

映画三昧、といってもいいかな?

昨日は予告通りラテンビート映画祭でダビッド・マルティン・デ・ロス・サントス『マリアの旅』を見た。これもすばらしかった。


そして今日、セリーヌ・シアマ『燃ゆる女の肖像』(フランス、2019を見てきた。カンヌの脚本賞とクィア・パルム受賞作。


結婚を前に姉が死んだ(たぶん、自殺した)ために、修道院を出て、どこかの孤島の城で身代わりの結婚に備える娘エロイーズ(アデル・エネル)の肖像画(見合い画?)を描きに来たマリアンヌ(ノエミ・メルラン)は、エロイーズが前任者に描かれることを拒否したので、単に散歩の同行者を装ってこっそりと描いて欲しいと依頼される。マリアンヌはチラチラと彼女を見ては夜、記憶に頼って細部を描き留め、そこから全体を再構成する。そうやって描いた絵を、しかし、まずは素性を明かしてエロイーズに見せてから渡したいと言ったためにエロイーズ本人に否定され、もう一度描き直すことにする。母(ヴァレリア・ゴリノ)がしばらくパリに行っているので、戻ってくるまでの5日間で完成させることというのが条件だ。今や堂々とモデルとしてエロイーズにポーズを取らせて描くマリアンヌは、欲望を抑えられない(視点は一貫してマリアンヌにある)。2人は関係を持ち、愛し合いながら絵を完成させていく。


かくして絵は完成するのだが、絵の完成は別れをも意味する……


何よりも自分の名前で創作できなかった時代の女性画家の創作をめぐる作品だ。それが絵であるから、そこには見る見られるの関係が入り込んでくる。見られる対象であるエロイーズは最初衣服にくるまれた後ろ姿でしかない。やがてフードがズレおち、走る彼女のふくらはぎが覗き、ちらちらと斜め後ろからの顔が見え、そしてやっと振り向いたその顔がはっきりと見える(振り向くことはこの映画の重要なモチーフでもある)。こうして顔が露わになった後も、しばらくはマリアンヌによって窃視された横顔しか見えなかったりして、巧みな視点操作が行われる。こうした窃視は恋に落ちた者の落ち着きなさを表していると同時に、その執拗さはねっとりとした欲望の表現でもあるように見える。官能的、と言えばいいのかな? 


一方で、いったんは仕上げた絵をモデルが拒否するなど、作家とモデルの関係をも描く芸術家映画の要素ももちろん持ち合わせている。親が不在の間に羽目を外す子どもたちの物語も映画ではよく描かれるが、母が留守にしている間に2人は関係を持つのだから、このタイプの変種とも言える。振り返ることはこの作品の重要なモチーフだと上で書いたが、エロイーズがマリアンヌと使用人のソフィ(ルアナ・バイラミ)に読んで聞かせるオルフェウスの物語も別れの物語を盛り上げる。いろいろな要素が詰め込まれた作品だ。最後には「コウルリッジの花」(ボルヘスの同名のエッセイ参照)のモチーフまで示して小憎らしい。


そして何より、最後のヴィヴァルディ「夏」(『四季』)の演奏が胸を打つ。そこでのアデル・エネルが外語時代のある教え子(母親がドイツ人だったかな?)によく似ているので感慨もひとしおなのだ。


写真はイメージ。