2011年6月12日日曜日

元ちとせのはだしを思う

レイモンド・ウィリアムズ『キーワード辞典』椎名・武田・越智・松井訳が平凡社ライブラリーに収録されたと新聞の一面の広告に見出し、昼食のついでに本屋に寄ってみたらもう店頭に並んでいた。買った。ついでに、もうひとつ目についたのが、

陣野俊史『戦争へ、文学へ:「その後」の戦争小説論』(集英社、2011)

ツイッター上で『すばる』の方が予告していたし、星野智幸がそれについて期待できる一冊だとコメントしていたので、気になっていた。こんなに早く出るとは思っていなかったのだが。躊躇したけれども、結局買ったのは、立ち読みしたときに2つの文章が印象に残ったからだ。ページは前後するが、目についた順に言うと、

 二十一世紀になって、特に二〇〇三年以降、若い小説家が戦争小説を多く書いている、そんな漠然とした印象があった。(18)

 文芸誌に掲載された小説を中心に一九九一年以降の「戦争小説」史を考えてみるとき、いささか驚くのはやはり九〇年代の戦争小説の少なさである。(14  下線は原文の傍点)

そうなんだよな、80年代までは確かに戦争小説があり、それが90年代になると少なくなる、そんな流れはあるように思うのだな、小説に限らず、映画とか漫画とかも。つまり、80年代に教養形成したぼくらの世代くらいまでが戦争をフィクション上の現実として感じていたのだよな、などとつらつらと思った。

しかし、そのとき思い出したのだ、2日前の元ちとせの姿を。彼女ははだしだった。

ぼくは元の熱心なファンではないので、厳密には言えないけれども、でもぼくが記憶している彼女の映像はステージ上では常にゆったりとしたワンピースにはだしという出で立ちだったように思う。元ちとせははだしの少女なのだ。

彼女はぼくより15歳くらい年下で宇検村の諸鈍かどこか、ともかく、山間の海辺にへばりつくようにしてわずかばかりの土地が開けた小さな集落で育っているはずだ。その彼女がはだしであるということはどういうことか? 

きっと彼女ははだしが自然でもっとも歌いやすい体勢だと感じているのだ。つまり彼女ははだしで育ったのだ……と思う。

ぼくたちは皆、はだしだった。元ちとせより15歳年上の、島の北部の、やはり山間にへばりついてはいるものの、それほど険しい地形ではない集落で育ったぼくの周りは、はだしの子が多かった。

靴くらいは持っていたさ。でも、ここ一番の力を発揮しようというとき(たとえば運動会で100メートルの徒競走を走るとき)、靴を脱ぐ子が大半だった。

ぼくたちの母の世代は、だいぶ年が行くまで、はだしが日常の姿だった。母は1931年生まれ。終戦時は14歳になったばかりだ。はだしで、集落の移動は徒歩か船が主だったと聞いたことがある。終戦後、いわゆる「2・2宣言」というやつで奄美群島はトカラ列島、小笠原諸島、沖縄ともども日本の領土外に置かれた。1953年、講和条約発行後の2年後には本土に復帰する。日本本土だってそれまでGHQの統治下だったといえばそれまでだが、それでも、たとえば軍票が通貨として使われたりして、明らかに日本とは異なる体制下で生きていた。このこともあって、沖縄より早く日本に復帰した奄美群島は(逆にそれだから、という面もあるが)、貧しかった。

1954年、復帰の翌年に大宅壮一が奄美を旅し、ルポを残しているが、主邑・名瀬はともかく、そこを離れれば人々の暮らしは「未開人のよう」だと書いた。はだしで、衣服もろくなものはなく、栄養状態も悪い、と。

ぼくは復帰の10年後、終戦の18年後に生まれた。ぼくたちは既に靴は履いていた、中学までの通学路は自転車で移動した(ただし、その時に使っていた県道が舗装されるのは、ぼくたちの中学在学中のこと。76-79年のいずれかの年だ)。でも、何かの折にははだしになるのを好んでいたのだ。貧しく、大学進学者だってそんなに多くはなかった。

ちなみに、ぼくははだしになると足の裏に痛みを感じるだけで、力など出せるはずもなく、そんな「未開人のよう」な真似はあまりしなかった。でも、ぼくの周囲にははだしの少年が多数いた。一方、ぼくは同世代の者のなかで、実際にはいちばん貧しかった。

ぼくたちの中学への道路が舗装されたころに、ぼくたちの住む集落とは対称の位置にある集落で生まれた元ちとせは、たぶん、はだしを自然と感じた最後の世代の最後の最後のひとりだったのではないかとぼくは推測する。その彼女が「わだつみの木」で圧倒的な話題をさらったのが2002年のこと。その翌年くらいから若い世代の戦争小説の隆盛が始まると陣野俊史は指摘しているのだ。

元ちとせのはだしは、時宜を得て出てきた戦後の記憶なのかもしれない。

と、本屋で考えたのだった。