2021年12月31日金曜日

映画収め、あるいは誰か故郷を思わざる

年末年始は映画を観ることが増える。昨日は江口のりこの初期の短めの映画を観ながら夕食であった。


さて、今日は、これ:


國武綾『夫とちょっと離れて島暮らし』ちゃず他(Amami Cinema Production 〔ACP〕: 2021)


2018年から2年半ほど加計呂麻島の西阿室に暮らし、その生活を漫画にしてきたイラストレーターちゃずの当初の予定では最後になるはずだった2ヶ月ほどを追ったドキュメンタリー。ちゃずには『イラストレーターちゃずの 夫とちょっと離れて島暮らし』(ワニブックス、2018)という漫画本があるが、それとセットで観てみるといいかも。漫画は島暮らしを始めてすぐのころのエピソード集。映画はそれに惹かれて観に行った俳優・國武綾の移住体験収集調査報告、のように読める。彼女はその後、実際に移住したとのこと。


僕は言うまでもなく奄美の出身で、そのことを誇る気もない代わりに恥じるわけでもなく、故郷を愛しているかどうかはわからないけれどもかといって憎んでいるわけでもなく、ただ自身の所与の条件として受け入れているつもりではあって、でもごくごく小さなころから都会に出て暮らすのだと思っていたし、いつまで経っても帰りたいとは思わない、そんな人間だ。この映画の中でも集会の締めにみんなで六調を踊るシーンがあるのだけど、ああいう場所で踊りに参加することはできないけれども、外から指笛で調子を合わせるタイプではある。まさにそんな感じで故郷には接してる……つもり。


で、こんな僕だから特に島に帰りたいとは思わないし(帰るとすれば家族の用で必要な時だけだし)、島に残った連中からやっぱり島はいいだろうといわれれば、ええと答えて調子をあわせはしても、実のところ別にそうは思わない。そんな僕にしてみれば、移住したり、期間限定ではあってもここに暮らしたりする人びとの気持ちというのは興味のあるところである。


たとえば、ごく最初のころ、加計呂麻島に着いてすぐのカメラ・クルー(國武とその夫で映画監督、本作ではプロデューサーの中川究矢)がちゃずに促されるように沈みゆく赤い夕陽をカメラに収める。それからまたちょっと後で、ちゃずが防波堤から海に飛び込み、それに誘われるように國武が続いて飛び込むシーンがある(パンフレットを読めばわかるように、このフッテージは、しかし、だいぶ経ってから撮られたものだ。編集の妙)。こうした細部に自然とふれ合うことによる癒やしを感じる人はいるだろう。


あるいはちゃずのアーティストとしての活動を撮りながらインタヴューをするといういかにもドキュメンタリーらしい展開を見せるうちにちゃずが吐露する父親との関係、鬱病の写真家で、数年前に亡くなったらしい父との葛藤で負った傷を癒やす場としての田舎、という解釈もできるだろう。


しかし、何よりもちゃずの西阿室での暮らしを有意義なものにしていた要素は、ちゃず自身の漫画本や劇場用パンフレットを補助線として考えたときに理解できそうな気がする。


たとえば漫画本の131ページ「島暮らし≠スローラフ」という6コマ。「想像 スローライフ♬/のんびりとした毎日」「現実 集落の行事が忙しい」(略)「そこに流れる時間はなんだかスロ~~♬」言い得て妙である。


ところで僕は、ちゃずの仕事のパートナーであり、移住における先行者であるマムさんというひとがとても気になったのだ。パンフレットなどを読んでいると、ちゃずの仕事をコントロールするのにけっこう気を遣っている模様。ちゃずのインスタグラム(リンク)も、マムさんのインスタグラム(リンク)も、ついでに國武綾のインスタグラム(リンク)もフォローしてしまった。


坂口恭平が主題歌を作り、歌っていた。この人はこんなこともできるのか、という驚き。開場前ロビーで國武綾と思われる女性がいたと思ったら、実際、本人で、終映後、挨拶があったのだ。


コロナ禍で計画が狂い、違う形の映画になったかもしれないところを、島人たちが撮ったフッテージで今の形にできたというのは、ドキュメンタリーの醍醐味。すばらしい集団製作だ。


ところで、出がけにポストに見出したのは、写真左の本。



管啓次郎『PARADISE TEMPLE』(Tombac/インスクリプト、2021)。


「ボロート、ポーレ(沼、野)」は沼野充義さんの退職記念号の『れにくさ』に掲載されたもの。「沼野さんがどこの人かは知らない」と始まり、バリー・ユアグロウの語るオデッサを「知らないままに/そんな情景を想像していた」(125、132)。知らないところへのノスタルジーをチェーホフに乗せた詩。僕はチェーホフのその作品を知らない。が、「ボスフォラスへは行ったことがない/ボスフォラスのことは、君、きいてくれるな」と、同じく知りもしないエセーニンを引用することはできる。


加計呂麻島とは、僕にとっては、やはりそういう知りもしないノスタルジーの対象なのだと言っていいかもしれない。加計呂麻島へは行ったことがない。加計呂麻島のことは、君、きいてくれるな、という感じ(注:本当は行ったことがあるけど)。


そういえば、管さんは僕にかつて「奄美のことを書こうよ」と言ってくれた人だ。そこからいくつかの発想の連鎖の後に僕はいくつかの文章(「儀志直始末記」と「高倉の書庫/砂の図書館」)を書いたのだった。


管さんはもちろん、今福龍太さんの主宰する奄美自由大学を機に奄美に行ったのだろうと予想する。以前、やはり何かの用で母の家に行っていたころ、今福さんから電話がかかってきて、今請島(与路島だったかも)にいるから、翌日加計呂麻まで迎えに来いと言われたことがあった。加計呂麻島の港で今福さんが乗ってくる予定の海上タクシーを待っていると、地元の兄ちゃんたちがいやらしく笑いながら小指を突き立て、「これか? これを待ってるのか?」と訊いてきたことがあった。そのとき感じた嬌笑。さげすみとおかしみ、反発と安心感。そのアンビヴァレンツゆえに僕は故郷を好きだとも嫌いだとも言えないのだろう。


今夜は(明日かな?)アレクサンドル・ソクーロフ『ドルチェ――優しく』島尾ミホ他(日本・ロシア、1999)をもう一つの参照系として見直しておこう。


映画が終わったのが11:40ほど。K’s Cinema前のラーメン屋でラーメンを昼食とした。生まれて初めてのこれが年越し蕎麦だ(これも年越し蕎麦なのか?)。