2021年8月5日木曜日

餓死するまでやるぞ!?

ちょっと前から高橋源一郎が集英社のサイトで「読むダイエット」という連載をしている(リンク)。


その第一回で紹介されたのが(リンク)、食べないことによって健康になると主張した二人の人物。水野南北(生没年が書いていないが、江戸時代の人。『養生訓』の貝原益軒などとも同時代人なのかな?)とルイジ・コルナロ(1464-1566)。水野については二次文献(つまり孫引きとして)だったけれども、ともかく、少食こそが健康の秘訣だと主張し、自らも長生きしたふたりだ。


高橋の文章を読む1年ほど前、体重がいよいよ危険領域に達しそうだと感じた(靴下を履くためにかがむと邪魔な何かが僕を息苦しくした)僕は食を減らし、ちょっとだけ運動したことで1年足らずの間に10kgほど減量した。その後、1-2kgほどリバウンドして、そのあたりの数値で安定している模様。おかげできつくなっていた服は元通り着られるようになった。あと5-6kg減らせば20-30歳代から40代前半くらいのころの数値に戻るはずである。


が、考えてみたら、一度病気でだいぶ体重を落としたこともあって、筋肉量が減っているのだし、数値を昔にもどしたくらいではいけないのではないかと思い、あと10kgは減らさなければと思い立った。


そんなころに高橋の文章を読んだのだった。なるほど、食事を減らしたのは正解だったのだな、と納得し、自身の正しさを追認した。


が、その後はなかなか体重は減らない。ここから先はもっと努力が必要なのだろうとも思う。一方で、10kg減らしたことで少し油断して、また間食などたまにするようにもなったから、それもいけないのだろうとも思う……そんなことを考えていたら、別の連鎖によって僕の目の前に現れたのが、南北の『修身録』とコルナロの『無病法――極少食の威力』中倉玄喜翻訳・解説(PHP、2012)。アマゾンのページに浮上してきたのだ。で、買ってみた。『修身録』はまだ届かない。とりあえず先に『無病法』が届いた次第。



コルナロは35-45歳のころ飽食の限りを尽くして身体を悪くし、医者から節食を勧められ、実行してみたら健康を取り戻したとして、少食のメリットを説いている。また、70歳の時には落馬し、医者が瀉血を試みようとしたが断り、オイルマッサージだけで回復。これも少食のおかげだと言うのだ。


いささか循環論法めいたところもなくはないが、章の区切りで翻訳者の中倉が現代的見地からコルナロの立論を説明するという構成。


一方で僕はかつて、(10kgも太ってしまう前)、こんなことを書いたのだった(リンク)。空腹の方が読書がはかどる、と。コルナロの文章をすんなり信じ込むタイプではないけれども、読書という観点からも、腹は空かせていようと思うのだ。それに、外山滋比古は朝の空腹時の方が仕事ははかどると言った(『思考の整理学』)。


貧乏だった僕には空腹がいちばん怖い。若いころはそうだった。大学生だったある年、大晦日から正月の三が日にかけて非常食用のインスタントラーメン2個しか食べられなかったこともあった。そのときのつらさが恐怖とともに思い返されることがある。でも、考えてみたらそれが怖く感じられたのも、もっと若いころから、身体をつくり健康であるためにはたくさん食べなければならないという思い込みの下に僕に食べさせてくれる善意の人に事欠かず、子供のころから貧乏なわりに食べていたからなのだった。もうだいぶ前から僕は朝は食べずに、6時ごろの夕食の後、11時くらいの昼食までは朝コーヒー2杯とジュース1杯飲むくらいなのだった(朝を抜くのは実は外山の主張に後押しされて定着した習慣)。そこで経験する空腹も、特に耐えがたいものでも恐怖すべきものでもないということは経験的に知っているはずだ。空腹がいちばん怖いという先入観を抜けばいいだけのことなのだ。


唯一の危惧はコルナロがむしろ虚弱体質(99)で、彼の講話が「少し食べ過ぎただけでもすぐに気分が悪くなるといった、きわめて虚弱な体質の者たちにとって」(63)役に立っているらしいということ。俺、だいぶ頑丈な方だし、食べ過ぎても全然体調など悪くならないのだよな……あ、でも悪人正機説みたいなものか、虚弱体質な者も少食によって健康になる。いわんや丈夫な者をや、というやつ。


コルナロの本の下にあるのは、ゲラ。ある著書の復刻版だ。ふふふ……