2ヶ月ほど前に以下のようなことを書いたのに、アップするのを忘れていた。
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ぼくはきっと、昔から読書するきれいなお姉さんが好きだったのだろう。自分が読書が好きだったのかどうかはともかくとして……
かつて、NHKの教育テレビ(現Eテレ)で「若い広場」という番組があって、そこで斉藤とも子が作家などに1冊の本を推薦してもらい、語ってもらうというコーナーがあった。安部公房が『百年の孤独』を語り、それに応えて高校生の斉藤とも子が作品の感想を述べたり、とそんなやり取りが展開されていたのだ。
昨日、そのコーナーの昔の映像を流し、斉藤とも子その人を呼んで話してもらうという時間があった。昔の思い出をぼくもしばし懐かしく見た。
開高健がサルトルの『嘔吐』を語り、腹を空かせながらだと読書は響く、と言っていた。現在の野坂昭如(注:まだ亡くなる前だった)が書面でコメントを寄せ、戦後の貧しい時代、読書で空腹を紛らわせたと回想していた。
ふむ。
空腹と読書か!
ポール・オースター『空腹の技法』だ。というか、その最初のエッセイ「空腹の芸術」で扱ったクヌット・ハムスン『飢ゑ』だ。
矢作俊彦『悲劇週間』では堀口大學の父親が、学生時代、砂糖をなめながら本を読んでいたという記述があった。ぼくはそれを糖分が脳にいいからだろうと思っていたのだが、これはつまり、砂糖だけをなめ、空腹の状態を作っていたということなのかもしれない。
その後の発言を見るにつけ、今となっては忘れてしまいたい読書体験だが、渡部昇一『知的生活の方法』では、彼は小遣いのほとんどを本につぎ込み、いつも腹が空いていた、と書いていた。
ぼくも貧乏な時代を生きてきたので、腹を空かせながら読書していた。メルキアデスの羊皮紙を読むアウレリャーノにも似て、テクストの内容が目の前に迫ってきた。思うに、最近、時々、読んでもいっこうに内容が頭に入らないことがあるのは、もはや空腹を感じていないからかもしれない……
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これを書いて以来、ぼくは意図的に空腹を作り出すようにしている。だからといって本の内容が頭に入ってきたかどうかはわからない。
例えば、ル・クレジオ『嵐』中地義和訳(作品社、2015)なんてのは、その表題作はヴェトナム戦争に従軍し、兵士が現地の女性を強姦するのを見過ごしにしたことによって投獄されたキョウさんという男性が、かつて恋人が入水自殺した韓国の牛島に久しぶりにやって来て、米兵と現地女性との子供ジューンと知り合い、ある種独特の関係を切り結ぶ話なのだが、夫に捨てられ都会からこの離島に移り住み海女となった母親を真似、海に潜るジューンの叫び声を目にした瞬間に、ハタと気づいているのだから、果たしてテクストに没入していたのかそうでなくて単にぼんやりしていたのか?
ジューンは叫ぶのだ。「エエエアル―ヤアアアル!」と。つまり、ここからタイトルはきているのだ。だから「嵐」なのだ。
ちなみに、ル・クレジオは、今週日曜、12月20日、東京大学で講演会を行う。リンクはこちら。