2021年8月16日月曜日

マルセリーノを見捨てて

ピラール・パロメロ監督『スクールガールズ』Las niñas アンドレア・ファンドス、ナタリア・デ・モリーナ他(スペイン、2020)


9月17日公開予定だが、一足早くディスクをいただいて見た。


1992年、サラゴサと思われる修道院経営の女子校に通う女の子、セリア(ファンドス)の成長の物語。年齢がはっきりわかる指標は映画内には観察できなかったと思うが、おそらく、小学校高学年くらいから中学生くらいだろう。友達の家で親のコンドームを引っ張り出してきて笑ったり、化粧をしてタバコを吸ってみたり、そのくせ胸の膨らみの遅れを他と比較して気にしてみたりもする。ディスコに行って男の子にナンパされるのを待ったり、というような行動から見ると、そのくらいではなかろうかと思うのだ。そう言えば、学校では性教育の時間があったりしたので、やはり、たぶん、そのくらいなのだろう。


そのくらいの年の少年少女は常に危うく、学校との関係、親との関係に問題ばかりだ。ほんの少しのきっかけでドロップアウトしかねない。セリアもそうだ。


セリアの場合を特殊にしていることは、家に父親がいないことだ。母親(モリーナ)が言うには父親はセリアが生まれる前に死んだし、彼女の両親も既に死んでいる。しかし、そんなことは嘘だとセリアは知っている。その嘘がいよいよ発覚した後のクライマックスでセリアが見せる涙には圧倒される。すごい! この映画はあの涙のためにある。


そしてもうひとつの特殊な点は修道院の経営する学校に通っているということ。少女たちは声を奪われている。つまり、静かにすることを必要以上に強調される。これがオープニングとクロージングの繋がりに通じてくる。そして、授業の形態! 上にほのめかした性教育の授業がそうだが、生徒たちはただ教師の読み上げる文章を書き取るだけだ。ちなみにこうした形態の授業はスペインの大学ではつい最近まで一般的であった。「つい最近まで」というのは、その「つい最近」(たとえばボローニャ・プログラム導入後)以後どうなったか、知らないからこう書いただけ。


興味深いのはその学校でラディスラオ・バホダ『穢れなき悪戯』(1955)なんてフランコ時代のカトリックのプロパガンダ映画をいまだに見せていたことだ。カンヌで特別子役賞を貰った作品とはいえ、1992年にこれではいかにも反動的だろうと思うのだ。主人公の少年マルセリーノが奇跡に立ち会い、イエス・キリストと会話を交わすクライマックス・シーンで映写室を立ち去るのがセリアの反抗の頂点なのだ。


(ちなみに『穢れなき悪戯』Marcelino pan y vino はこの映画の舞台よりもさらに後、1997年にイタリアでリメイクされ『マルセリーノ・パーネ ヴィーノ』のタイトルで日本でも公開されている。だからといって92年に『穢れなき悪戯』が反動だという論旨に支障は起きないと思う)


僕らは皆、かつて10歳だった。10歳のセリアは親を理解するのに苦労しているけれども、かつて10歳だった僕らには10歳の少女の苦しみはよくわかる。……ように思える。少なくともなつかしく思いだせる。そして楽しく眺められる。



(写真はイメージ。最近、Word for Mac が画面設定に合わせて黒地に白字で表記されるようになった。モニターの下はゲラ)