2021年1月30日土曜日

日記、書きます

今日は立教大学で(といっても、情勢に鑑み、結局オンラインになったのだが)博士論文の審査だった。副査として参加したのだ。ビクトル・エリセについてのものだ。


審査委員というのも難儀なもので、何百枚もある論文を批判的に読まなければならない。批判的に読むということは、論文内の資料や事実などを自分でも検証してみるということだ。自分でも検証してみるということはそこに書かれたことを鵜呑みにするのでなく、その引用された本などを自分でも読んでみるということだ。そうして作り上げた批判的コメントを2-30分ばかりも披露してみせる。その上で学位申請者の反論を待つ。場合によっては議論をする。そういう作業をするわけだ。今回、190ページ(400字詰め約580枚)ばかりの論文に対し、僕は5ページ(同約15枚)のメモと4ページ(同約10枚)のコメントを用意したのだ。


(余談だが、こうして他大学の審査に呼ばれる場合には幾ばくかの謝礼がいただけるが、自分の大学では業務の範囲内ということで、一銭ももらえない。他キャンパス——僕にとっての駒場——に行く場合に勤務先のキャンパス——同、本郷——からの交通費が出るくらいだ。)


細かい論文の内容などはともかくとして、試験の最終盤あたりで、ある先生の質問に答え、申請者がビクトル・エリセのある言葉を紹介した。「私は日記を書くように映画を撮りたい」というものだ。


ふむ。


そういえば、ホセ・ルイス・ゲリンの『工事中』という映画は、自身が住むバルセローナのラバルの街区を定点観測のように撮り続け、そこから立ち上がる物語を編集していったものだった。こういう手法って、あさって僕が小田香さんと語ることになっているアントニオ・レイスやその弟子ペドロ・コスタのドキュメンタリー的と言われる手法――創作法というべきか?――にも通じることではないのだろうか? 


そういえば、僕も最近、ある論文の原稿に苦しみ、最初から順番に作ろうとしているから苦しんでいるのであって、いくつものパラグラフを書きためてから、後にそれを編集する感覚でやった文章は締め切りに遅れることがなかったと改めて気づき、日々書きためることを誓ったのであった。誓ったからといって出来るとは限らないけれども……


ところで、今日、その博士論文審査が終わるころの時間から始まったのが、現代アートハウス入門。以前告知のごとく僕も第三夜に登壇することになっている。それはともかくとして、今日はそのオープニング、ビクトル・エリセの回だったのだ!