2020年8月3日月曜日

マルジナリアは書物を個性化する

表題の言葉はウンベルト・エーコの言葉「下線は書物を個性化する」をもとにしている。『論文作法』だ(谷口勇訳、而立書房、1991。ただし、谷口は一貫して「エコ」と表記)。つまり線を引いて初めてその本は君の本になるということだ。論文の一次資料に関して線を引きまくれ、そして書き込みもしろ、と勧める箇所での一文。ということは書き込みも、当然のことながら、本を自分のものにする要素だ。


山本貴光『マルジナリアでつかまえて――書かずば読めぬの巻』(本の雑誌社、2020)はそんな下線や書き込み(マルジナリア)を扱った本。山本自身は漱石の『文学論』(岩波文庫版)から本への書き込みを始めたそうで、それが結実したのが、『文学問題(F+f)+』(幻戯書房、2017)なのだそうだ。そんなわけで漱石のマルジナリアン(というのかどうか知らないが、山本はこの語を使っている)ぶりを紹介、フェルマー、石井桃子、ナボコフ、デリダ、等々、先人のマルジナリアを紹介していく。外国語学習における書き込みや漢文の訓読記号なども、そしてゲラでの校正もマルジナリアとみなす発想には膝を打つ。自身の書き込みのしかたなども披瀝する。


僕はある一時期、書き込みをしなかったことがある(世紀をまたぐころ。法政に勤めていた時代)が、基本的には大学に入ったころから書き込みはしている。ただし、法則性などはあまりなく、かつ、気まぐれだ。山本が彼の本の中で紹介しているような、ペンがなければ読めない、というほどの書き込みマニアではない。基本的には鉛筆で書き込む。モノクロ派だ。ただし、最近は外国文学などで人名をラインマーカーでマークしたりもする。消せるペンであるフリクションのラインマーカー版があるので、それを使う。基本的に鉛筆での書き込みなので、筆箱に入れたものとは別個、上着のポケットにたいていはシャープペンシルを忍ばせている。電車の中などで読むときに使えるように。ただし、盛夏、上着を着ないときには困る。


昨日、フーコー『言葉と物』の新版が旧版とは版組が異なるというTwitter上の指摘を見つけ、確かめるために手持ちの旧版を開いてみた。下線が引いてあり、書き込みがあった。古紙を付箋代わりに挟んだページもあった。


そうそう。おそらく、付箋もマルジナリアの一部と見ていい。僕はそういえばかつて、市販のポストイットなどは使っていなかった。古紙やノートの切れ端を挟んでいたのだ。書き込み以外にもメモを取ったりする。そのメモ用紙を挟む。今なら付箋とは別にメモ用紙を使うのだが、一時期、古紙を細長く切り、その裏にメモを書いたり、あるいはメモを書かずともそのまま付箋にしたりしていたのだった。


こんな感じだ。


一番上が『言葉と物』下はトドロフ『アメリカの征服』(後に『他者の記号学』のタイトルで邦訳された)。真ん中がルネ・ジラール『欲望の現象学』。『欲望の現象学』は表紙の厚紙を切り取ってカバーを中扉に貼りつけ、ペーパーバック風に加工した。こうしたことを何冊かの本に関してやった。たぶん、大学院生のころだったと思う。これもまた本を個性化するひとつの手段。