貧しく生まれ育った。よく冗談に日本で二番目に貧しい家だったと言う。一番ではないところが現実的だし、それが現実的だと思えるていどに、当時は「一億層中流」の意識が浸透する時期だった。今なら二番目とは言わない。
ともかく、貧しく生まれ育った。借金を背負って生まれてきたと言っていい。そんな人間が借金を清算するのは難しい。ぼくがもう少し堅実な人間ならどうにかなったかもしれないが、詳しくは語らないものの、個人的な事情と、家庭の事情とで、ぼくには難しい。おそらくぼくは、老後は野垂れ死にするだろう。
イヴァーノ・デ・マッテオ『幸せのバランス』(イタリア=フランス、2012)は原題をGli equilibristi という。軽業師(複数形)などの意味だが、転じて、世渡り上手。が、ここに出てくるのはむしろ、世渡り下手な男(と女)。あやうくバランス(equilibrio)を保っている。いや、保てないでいる。経済的な問題なので、自転車操業、と言えばしっくりくるかもしれない。
自身の浮気がもとで別居することになり、家を出たジュリオ(ヴァレリオ・マスタンドレア)が、公務員としての収入ではその生活レベルを保てないということに気づくのが遅れ、借金したりしているうちに、仕事以外のアルバイトをしても生活が立ち行かなくなり、ついには車上生活へと身をやつす話。
車上生活なのだ。車はあるのだ。その車のローンが、出ていったアパートのローンや長男の歯列矯正、長女のバルセロナ旅行などと重なって、二重生活を圧迫していたわけで、車など手放してしまえば少しは楽になったかもしれないのだ。その辺のバランスが、生活のバランスを崩させるところ。
もちろん、国家が(ジュリオの場合は市役所職員だからローマ市が)転覆でもしなければ、ひとりの公務員がここまで急激に落ちることはない。だろう。しかし、10年、20年のスパンで考えれば、ましてや国家がみずからを転覆させる道に進んでいる国々(もちろん、ぼくらもその一員)では、あり得ない話ではない。
ヴィットリオ・デ・シーカの『ウンベルトD』とよく比較されたという。ぼくなど、この間までガルシア=マルケスについて考えていたので、『大佐に手紙は来ない』を思い出していた。あてにした年金は届かず、生活が圧迫されていく……
……そして何より、自分の老後を考え、身につまされた。
別居の発端となる問題の提示のしかたが良かった。子役二人の演技も、それぞれ一箇所ずつ、唸る。長女役のロザベル・ラウレンティ・セラーズはまだ「子役」と呼べるのか、不安だが。このエントリーの表題は、映画内のセリフから。まったくそのとおりだと思う。ぼくらは多くがプレカリアート予備軍なのだ。