2017年7月27日木曜日

なぜだろう? 涙が出る

若林正恭『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』(KADOKAWA、2017)

タイトルに惹かれて手に取った。

まったくTVを見ないわけではないから、若林正恭が漫才師であることは知っている。彼らの漫才も見たことがある。あまり面白いとは思わなかったが、台本を書く若林は本好きでもあり、BSでは小説家たちとのトークショウも持っている(その成果が本にもなっている)こともかろうじて知っている。

僕の若林正恭に関する予備知識はその程度だ。若林正恭のキューバに関する予備知識より少しは多いと思う。若林は、ほとんど予備知識もなくキューバ行きを決意する。最初、旅行代理店で動機を尋ねられ、アメリカとの国交が回復したから、と適当に答えては、皆さんそう言う、と返される。しかし、しばらくしてから、家庭教師に新自由主義の概念を学び、自らの人生を振り返り、新自由主義に侵されていない社会に行きたくなったから、との動機を明かす。そして最後の最後に、本当の動機を明かすのだが、それはここでは書かないでおこう。泣いちゃうから。

ともかく、そんなわけで、さしたる予備知識もなく、バウチャーひとつで本当にホテルの予約ができたのかと不安に思いながらも、やっと取れたチケットを手に若林はハバナに向かう。

さて、新自由主義体制の浸透である種の疎外感を味わったことが冒頭に明かされて始まるのだが、それでも若林は芸人として、TVタレントとして言わば傍系とはいえ勝ち組に収まったのだな、と思えるのは、彼がハバナでガイドを頼んでいるからだ。僕はそんなものに頼って旅行したことはない。

でも、そのガイドの描写が面白い。初日に頼んだのはマルチネスという、流暢な日本語をしゃべるキューバ人。彼は案内すべき箇所についての説明は饒舌にこなすのだが、いったん、そうした場を離れると無口になってしまう。

「革命博物館まで何分ぐらいですか?」
「……15フングライ」
 また無言。
「暑いですね」
「……オヒルハモットアツクナル」
 それから革命博物館に着くまで二人はずっと無言だった。
 ぼくは気づいた。
「マルチネス、人見知りだわ」(65-66)

若林は、そういえば、『社会人大学人見知り学部 卒業見込み』という本を書いているのだった。人見知りは人見知りを知る。そして人見知りにやさしい。そんな人見知り芸人の人見知りガイドに対する心遣いが暖かい。人見知り読者としては何だかほっとする。日本のガイドブックを見せたら1cuc(兌換ペソ)と1センターボの写真キャプションが逆であることを教えられ、この間違いに気づかず、10cucをチップとして置いてきたことを笑い話として提供する。「それからマルチネスは気持がほぐれたのかよく喋るようになった。マルチネスが明るくなったから10cucも痛くないなと納得した」(91)。「公式レートでは現地の人の1ヶ月弱の収入にあたる」額をチップにしてしまったことを「痛くない」と感じるほどにマルチネスを明るくさせたかったのだから、やさしいのだ。あるいは、人を笑わせることを職業とするお笑い芸人のプロ意識が感じられるのだ。(一方で、やはり勝ち組なのだとも思う)

本書のタイトルは、カバーニャ要塞で野良犬を見て、著者が

 東京で見る、しっかりとリードにつながれた、毛がホワホワの、サングラスとファーで自分をごまかしているようなブスの飼い主に、甘えて尻尾を振っているような犬よりよっぽどかわいく見えた。(77)

と感想を抱くところから来ているのだろう。ハバナの観光地で抱く若林の感想は優れている。第1ゲバラ邸にゲバラの存在が感じられないとつぶやき、革命広場でカストロの5時間、10時間に及ぶ演説のことを考えて、そんな異常なことがあり得るのだろうかと疑問を抱く。そして「いろんな芸風の人を舞台袖で見てきたけど、芸人には元々声に力を持っている人とそうでない人がいる」、「ラッパーの方でもそうだ。声、リズム、そのものに快楽を呼び起こすものを持っている人がいる」、「カストロの声やリズムには、長時間人を惹き付ける力があったはずだ」、だから「カストロが10時間ラップで演説をして、それを聞きながら10万人の聴衆はサルサを踊る」(86)そんな光景を妄想する。こうしたコメントのひとつひとつがとても新鮮で面白い。

文章の工夫も唸らせるものがある。自身の話す挨拶程度のスペイン語は「オラ」「グラシアス」などとカタカナで表記し、キューバ人たちの話すスペイン語はHolaなどとアルファベットで記す。

冒頭の口絵はともかく、本文中に挿入される写真は白黒だが、苦労してどうにかバスに乗り、30分ほどかけて行ったサンタマリアのビーチにたどり着いた瞬間、その写真だけはカラーで示す。

 ぼくは思わず「ははははは!」と声を出して笑ってしまった。
 なんでだろう、めちゃくちゃ綺麗な海に辿り着けたことがおかしくて仕方なかった。(158)

うむ、読ませる。


(写真は読後行ったメキシコ料理店テピート@下北沢でいただいたうちわと共に)