2012年8月20日月曜日

原初のイメージをたどり直すこと


友人がFacebook上で土屋鞄製作所のページに「いいね!」ボタンを圧していて、そのページの存在を知ることとなった。そこに記入者の「両親が結婚したころから使っている」というミルの写真が載っていた。


一気に時間が逆戻りした。ぼくもかつてこれを愛用していたのだ。ぼくはこの写真で久しぶりにこれを見るまで、ぼくがコーヒーを飲み始めたのは実家に同居していた母方のおじの影響だと思い込んでいた。レストランのオーナーシェフになりたいのでその軍資金集めのためにと実家(そこはつまり彼の実家でもあったわけだ)に住んで近所のコンクリートブロック製造会社で働いていたものの、金を貯めるどころか、いかにも時代がかったステレオセットと流行り物なのでいまでは廃れたし、そもそもサイズが違うので着られないタンス一棹分の服、それに少しばかりの借金を残して失踪した、浪費癖のあるらしいおじ。ぼくがだいぶいろいろな特性を引き継いでいるおじ。ぼくにとって新しいものは何もかもおじから来ているとの意識があったので、そう思い込んでいたのだろう。

そうではなく、コーヒーをわが家に持ち込んだのは兄だった。この写真を見た瞬間、そう思い出したのだった。コーノ製のミルとハリオのサイフォン。一緒に買ってきたモカの豆をこのミルに入れてカリカリと挽き、ねじ込み式の下部を開けて挽き立ての粉を見たときに立ちのぼった香り、それとはまた異質の、サイフォンの上のフラスコにお湯が登って行ってその粉を包み込んだときの芳香。そういったものを一気に思い出した。

そんな思い出話とともに語りたくなるのがビクトル・エリセ『ラ・モルト・ルージュ』(2006)。アッバス・キアロスタミとのビデオ往復書簡展(ポンピドゥー・センターおよびCCCB――バルセローナ現代文化センター)で公開された30分ばかりの短編だ。今回、宮岡秀行のプロデュースしたドキュメンタリー『リュク・フェラーリ』とともにUPLINKで上映された。昨日と、それから30日にもう一度ある。

ぼくはかつて『ビクトル・エリセDVD-BOX』(紀伊國屋書店、2008)に収録された『ミツバチのささやき』のリーフレットの解説で、エリセの「近年」の文章に触れながら、子供が初めて触れるスクリーン体験、光に照らされたスクリーンに陶然と見入る体験の重要さを説く彼の文章を具現化したのがこの『ミツバチのささやき』なのだという趣旨のことを書いた。つまり、この映画はエリセ自身の初めての映画体験を大きく反映した、自伝的作品のようなものなのだと言いたかったのだ。

そこでほのめかした「近年」の「文章」のひとつはこの『ラ・モルト・ルージュ』におけるヴォイス・オフによる語り。彼が育ったサン・セバスティアン、ドノスティアの街にある映画館での初めての映像体験を綴っている。1946年に見た、ロイ・ウィリアム・ニール監督によるシャーロック・ホームズものの『緋色の爪』(日本語のデータベースでは見当たらない。戦争が関係しているのだろう。ニールの作品は35年公開のものまでしかない)だ。それの舞台となっている架空のカナダの都市がラ・モルト・ルージュ。エリセは子供のころの映像体験、つまり、見た映画そのものと、それを見たときの周囲の人々の様子、自分自身の様子を語り、かつ、架空の街であるラ・モルト・ルージュ、あまり情報もないニール監督や舞台の街についてのその後知り得た情報(記憶の修正)を語っている。

『ミツバチのささやき』が高度に自伝的な映画であるということがわかると同時に、原初の体験とその忘却、勘違い、などについて考えさせられて感慨深い。

ところで、ニール監督によるシャーロック・ホームズものは、今では『シャーロック・ホームズ コレクターズBOX』として入手可能だ。ひょとして『緋色の爪』La garra escarlata というのは『闇夜の恐怖』だろうか?