2012年8月23日木曜日

尾籠な話……なのか?


ホルヘ・フランコ『パライソ・トラベル』田村さと子訳、河出書房新社、2012

『ロサリオの鋏』に続き、フランコ2冊目の翻訳だ。恋人のレイナの主導で不法にニューヨークにやって来たマーロンが、ちょっとしたことで右も左もわからないこの都会でレイナとはぐれることになり、浮浪者のような生活の末に行き着いたコロンビア系のレストランの人々に助けられて立ち直り、そこで知り合った人々を相手に、はぐれた恋人とのことを語って聞かせる、という形式。最終的には恋人がマイアミにいることがわかり、彼女に会いに行く途中のグレイハウンドのバス内も語りの場になっている。

ビザの出ない2人、および他の人々からひとりにつき5000ドルもの大金を受け取って合衆国に不法入国させるブローカーがパライソ・トラベル。コロンビアでレイナとマーロンが金を作るまでと、大変な旅を重ねてグワテマラ、メキシコ、合衆国と陸伝いに入っていく旅が半分、身分証もなくニューヨークのクイーンズで、レストランのトイレ掃除などをして生きていくマーロンの苦労話が半分。

レストランの仲間、ねぐらを提供してくれた人、グレイハウンドで隣に座った乗客、マーロンに思いを寄せる女性などを聞き手に語られるマーロンの語りは語りの場所が行ったり来たりして、それに合わせて語られる場面も行ったり来たり。テンポか良くて読者を飽きさせない。

こういう南北アメリカの(インターコンティネンタル)移動の話は、むしろ映画が得意にしてきたのだったな、と思う。『闇の列車、光の旅』、『そして、ひと粒のひかり』。特に後者はコロンビアから麻薬の密売人としてニューヨークに移動する女性たちの話なので、旅の前後について多くを思わせる。陸路の旅というと、前者、ということ。

『そして、ひと粒のひかり』は、麻薬を入れた蚕ほどの大きさのビニールの袋を、何十個も飲み込んで胃に蓄えて移動し、着いた先でひり出し、売人たちに渡すという運びやたちの話。主人公マリーアは連れて行かれた郊外のホテルの浴室で、取り出したその麻薬の袋を丁寧に洗い、匂いまで嗅いで確認して渡すのだが、そこまでの気遣いをしない友人は、組織から逃げるさいにその麻薬を持ちだしてそこに固執する。この対比が印象的な映画だった。体内に隠れていたものは秘密だからこそ貴重なのだ。排泄物と黄金が同一である次第だ。フロイトを思い出す。

で、そんなことを考えていたせいか、『パライソ・トラベル』でもレストラン〈祖国コロンビア〉のトイレ掃除をすることとなったマーロンが吐く糞尿にまつわる悪態が実に印象的。

僕が最初に考えたのは、糞を食らうだけでなく糞の掃除をするために、この国に残っている価値があるかどうかということだった。(116ページ)

『そして、ひと粒のひかり』でも、主人公が逃亡の先に、頼っていった人物はクイーンズに住んでいた。そこの花屋では、主人公がコロンビアで出荷していたものを思わせる薔薇が売られていた。『パライソ・トラベル』の主人公マーロンは、恋人レイナが嫌悪したであろう民族衣装風の制服に身をつつみ、クイーンズのレストラン〈祖国コロンビア〉のウェイターになる。

トランスアトランティックな、アメリカ―ヨーロッパの移動の軸も重要なのだが、インターコンティネンタルな、南北のアメリカの移動も取り上げられていいトピックだ。ヨーロッパの人々はかつて黄金を求めてアメリカに渡ったものだが、南米の人々は北へ渡って黄金を排泄する。