2010年6月8日火曜日

いただきました。

 白水社から何やら通知が届いた。


 お、早くも印税か? 封筒を開けてみた。目に飛び込んできた数字はささやかなものだった。そりゃあね、翻訳者印税は一般に、著者印税より少ない。ましてや今回は共訳。半額になる。外国文学では発行部数も決して多くはない。印税相殺での献本もだいぶした。もとよりこれで一財産築けるなどと夢は見ていない。そんなことわかりきっている。しかしなあ……それにしちゃ少なくないか?

 よく見たら、先日の出版記念イヴェントの謝礼だった。なあんだ、そんならわかる……

 いや、むしろびっくりだ。あれで金がいただけるんだ! ええ、確かに一晩飲めば使い果たしそうな額ですよ、でもね、一晩しゃべっただけなんだから、それで充分、ありがたいというもの。

 2年ほど前に、同じくセルバンテス文化センターでやったセサル・バジェホのイヴェントに出たときの報酬は、後日ペルー大使館からいただいた極上のピスコ酒1本だった(そういえば今回もチリ大使館からワインを1本、いただきました。おいしかった)。そんなものだ。なにかお話しして金がもらえるなんて思ってはいない。ぼくたちはそんな価値観の世界に住んでいる。

 大学というのはそんな価値観に基づいて経済活動を行っている。

 水村美苗がどこかで書いていた。われわれは世界中の大学から招かれ、講演などをする。受け取るのはたいてい、エコノミークラスの航空券とつましいホテルの宿泊代、わずかばりの謝礼。そう。ビジネスクラスで旅をしたければ、自身で貯めたマイルでアップグレードするしかない。

 売れっ子の同業者が言っていた。とある大新聞の書評委員になったら、黒塗りのハイヤーで送り迎え、……あれでは堕落してしまう。ぼくらはこのように、独りで、安上がりに移動するのが当然との意識で生きている。

 近年は大学も、しかし、外部から様々な人を招かなきゃやっていけないようだ。ぼくの属する大学など、この規模でなぜこんなにイヴェント尽くしなのかと、あきれるばかりだ。もっとあきれるのは、ぼく自身がそのようにして人を呼ぶために東奔西走しなければならなくなることがあるということ。手紙を書き、電子メールを送り、電話をし、場合によっては直接出向いていってお話をする。自腹を切って出向き、そんな大学的価値観を基に設定された安い仕事をオファーし、結局、快い返事が得られないかもしれない。

 やれやれ、とため息が出る。確かに、郊外型に成り下がってしまった現在、学生たちが街に繰り出して街の中で迷い、考え、行動し、知恵を身につけるような機会を提供することはできない。人文・社会科学の学生は街で考えなければならいと思っているのに、だ。でも、だったら、街を大学に持ってくればいい。都会ではなにがしかの料金を払わなければ聞けないような人の講演やシンポジウムを、この郊外のキャンパスでもやってしまおう。しかもただで。その心意気はいい。だが、そのためにぼくたちが費やさなければならないエネルギーを思うと、何だかやり切れない。そのことの本当の因果関係はわからないけれども、疲れているときなどは、あるいは企画が思い通りに行かないときなどは、そしてまた自分が立てたわけでもなく、納得も行かない企画であるときなどは、これでは授業の質が落ちてしまうよ、とぼやきたくもなる。

 あ、この点に関して、今日何かがあったというわけではない。日頃思っているということ。