2024年1月27日土曜日

開始1秒で興奮の極地

そんなわけで昨晩、インスティトゥト・セルバンテスで観て、語ってきたのだ。


ビクトル・エリセ『瞳をとじて』スペイン/GAGA2023


前に書いたように(リンク)個人的な思い出などは語ることはないだろうと思っていたのだが、そして、だから93年のエリセとの日々をブログに書いたりしたのだが、結局、その話もすることになったのだった。


そしてまた、同じく以前書いたのだが、それ以前に実際の作品を観ていなかったので、『瞳をとじて』そのものに関しては細かい議論はできないかな、とも思っていた。ところが、開始直後から僕は大いに興奮し、「おおっ!」と叫んだり立ち上がったりしたい欲求を抑えるのに必死だった。それだけ言いたいことが溢れてきたのだ。


『瞳をとじて』は映画の撮影途中で失踪したかつての二枚目俳優フリオ・アレナス(ホセ・コロナド)の行方を22年後、そのときの映画監督だったミゲル・ガライ(マノロ・ソロ)が、TV番組の要請に応えて探す話だ。最初の10分くらい、未完の映画『別れの眼差し』La mirada del adiós の(おそらく)冒頭のシーンが紹介され、そしてラストでその(おそらく)ラストのシーンが紹介される。そこにいたるまでの22年後の現在の捜索(それはまた過去を見直す作業でもある)が映画の中心ではあるが、この最初と最後に挿入される映画内映画もとても重要。かつ、面白そう。そのふたつの映画が絡み合って作品はさらに重層的になる。


いわゆる「ネタバレ」のない範囲内でいうと、僕はこの冒頭の映画内映画『別れの眼差し』にひどく興奮してしまったというわけだ。


オープニングはフランスの田舎にあるらしい古く大きな邸宅の外観から始まる。そして、その邸宅の名が Triste le Roi であるとの字幕が目に入った瞬間に僕は興奮の極地に達したというわけだ。トリスト・ル・ロワ! 言うまでもなくこれは、ボルヘス「死とコンパス」の犯罪の終結点となるホテルの名だ。この名が「ある短篇小説から取られた」ことは『別れの眼差し』のなかでも明かされるが、それがボルヘスの短篇であることは明言されない。しかし、ボルヘスの愛読者なら、もちろん、だれもがすぐに思いつく名だ。


これはブエノスアイレス郊外アドロゲーにあるホテルを念頭に置きつつも、こういうフランス語の名にしたのだとのこと。が、こうして名を変えるなどして初めてブエノスアイレスの場末の雰囲気をよく伝えていると褒められたのだと、後のボルヘスは回顧している(「アルゼンチン作家と伝統」牛島信明訳『論議』〔国書刊行会〕所収)。そしてアドロゲーのホテルといえば、もちろん、「一九八三年八月二十五日」(『シェイクスピアの記憶』内田兆史、鼓直訳〔岩波文庫〕所収)の舞台オテル・ラス・デリシアスだ。ここはボルヘスが自殺を決意したときに泊まったホテルでもある(内田兆史による解説)。まるで『エル・スール』の父親を思わせる行動だが、ともかく、それだけボルヘスにとって重要な場である。


しかし、ここでの問題はボルヘスにおける〈トリスト・ル・ロワ〉の重要度ではない。その名でアドロゲーのホテルを形容した「死とコンパス」こそは、ビクトル・エリセが『エル・スール』と『マルメロの陽光』の間に映画化を試み脚色した2つのボルヘス作品のひとつだということだ。念のために言うと、もうひとつは「南部」、つまり、"Sur" だ!


そして、映画内映画『別れの眼差し』では、トレードで生まれてタンジェに育ち、世界中を旅して名前を何度も変え、今はレヴィと名乗るユダヤ人(まるでボルヘスの人物のようではないか! そしてこれはまた、映画の本筋にも対応する話)がフリオ演じる人物にある依頼をするというシークエンスが展開するのだが、そこで、『上海ジェスチャー』という名の映画が言及される。これもまた僕の興奮の種。


というのは、エリセはフアン・マルセーの小説『上海の魔力』El embrujo de Shanghai という小説を『上海の約束』La promesa de Shanghai の名で映画化しようとしてクランクイン直前でストップがかかり、挫折。諦めがつかず(なのか?)その脚本を脚本単独で出版した(小説はその後、小説のタイトルのままフェルナンド・トゥルエバが映画化した)。その脚本の前書きにはエリセ自身の原初の映画体験が綴られる(そのコンセプトは後の短篇「ラ・モルトルージュ」に結実する)。そしてその初の映画内である女優が現れた瞬間を永遠化したのだった。その映画というのが『上海ジェスチャー』だ。これへの返礼であるから映画は『上海の約束』になるべきだというのだ。


つまり、映画内映画『別れの眼差し』は、エリセが計画して実現することの叶わなかった映画が変形される形で込められたものなのだ。そう思えば(『瞳をとじて』の)ラストでの(『別れの眼差し』の)ラストシーンも大きな意味を持ってくる。


『瞳をとじて』が映画についての映画とされているのは既に喧伝されているとおりだが、これはまたエリセ自身の過去の作品についての映画(フリオの娘アナ役でのアナ・トレントの起用。これは泣くぞ)でもあり、エリセがついぞ実現することのできなかった映画作品についての映画でもあるのだ。


ちなみに注記するなら、「死とコンパス」はアレックス・コックスが映画化、『デス&コンパス』(メキシコ、日本、アメリカ、1996)の名で公開された。公開時のティーチインでコックスは他の誰かが書いた「死とコンパス」の脚本を読んだが、あまりにも部厚くて映画化不可能と思われたと発言しているが、あれはエリセ版「死とコンパス」のことではなかったのだうろか? そのことが質問できなかったのはその場に居合わせた僕の心残りである。



(写真はイメージ。チリンギート・エスクリバのバレンシア風パエーリャ)