半年以上ブログの更新を怠っていた。ちょっと前に誰かからブログを復活させろ、と言われたので、それもそうだと思い、久々に更新。
リラ・アビレス『夏の終わりに願うこと』ナイーマ・センティーエス、マテオ・ガルシア・エリソンド他(メキシコ、デンマーク、フランス、2023)
末期癌で親の家で終末期を迎えるトナ(ガルシア・エリソンド)のために盛大な誕生日パーティーが開かれることになる。その準備の過程と実際のパーティーの様子を、父に会いにやってきた娘のソル(センティーエス)の視点から描いた作品。というのが、おそらくはいちばんシンプルな説明。しかしもちろん、それだけで言い尽くせるはずもない。豊かな細部に彩られた映画だ。
トナの兄弟姉妹は他に3人。長女のアレハンドラ(マリソル・ガセ)はパーティー準備を取り仕切るのだが、弟トナの病気を治す手だてにと霊媒師を呼んでお払いのようなことをしてもらい、父親(ソルにとっての祖父)ロベルト(アルベルト・アマドール)は不機嫌を募らせる。おそらく父とその家に同居しているのが次女のヌリア(モンセラート・マラニョン)だが、彼女はソルとその母(つまりトナの妻)ルシーア(ヤスーア・ラリーオス)がケーキを買ってきたのに自分が作るケーキに固執し、一度焦がした後に作り直しが終わらないうちはパーティーにも顔を出さない。アレハンドラに指図されることにはうんざりしている模様。このケーキへの固執、2個のケーキというのが、ラストのソルの不穏な表情を理解する鍵になりそうだ。男兄弟のナポ(フアン・フランシスコ・マルドナード)は自然食品などに意識が向いている模様。
こうした家族のすれ違いの原因は、もちろん、トナの病気の治療費に苦しんでいる家族の事情があるのだろう。使用人クルス(テレシータ・サンチェス)を雇うごく普通の中流家庭であるはずの家族は、そのクルスへの給料の支払いも滞っているようである。
死に臨む者を扱っている映画だけあって、トイレ/浴室がストーリーの重要な時空間を形作る。最初のシーンはソルとルシーアの親子が(デパートかどこかの)トイレで話しあうシーンから始まる。トナはクルスに助けられてトイレに入るし、十分に大きな家であるが、その時点で唯一機能しているトイレ/浴室を使っているヌリア親子はアレハンドラに早く出ろとせかされる。一度はパーティーに出ようとしたトナも途中で漏らしてしまって(me cagué とつぶやく)、一度は引き返すことになる。生々しい排泄を見せるわけではないが、こうした細部がリアリティをもたらす。
それにしてもトナを演じるガルシア・エリソンド(ガボの孫でサルバドール・エリソンドの孫でもある)の役作りはすさまじい。二度ほど裸の上半身が映るのだが、あばら骨が浮き、腹がへこんでえぐれている。相当に無理な減量をしたのだろう。力石徹を想起せずにはいられなかった。あれをリアルな肉体でやっている。それとも、デジタル処理であんな体ができるのだろうか?
ソルの視点で描かれるので、カメラはクローズアップが多く、大人たちの姿がフレームからはみ出たりする。画家であるトナはソルに絵をプレゼントするのだが、その絵も全体像はわからない。エンドロールにはそれを補うような仕掛けがある。エンドロールなど顧みることもしないメキシコの映画で、そんな仕掛けがなされているのだから面白い。
写真は松原食品のレトルトのモレ・ポブラーノ。パッケージ写真から受ける印象よりもチキンは少ないという感じ。味は悪くない。