2024年1月16日火曜日

ビクトル・エリセの思い出

インスティトゥト・セルバンテスでビクトル・エリセ『瞳をとじて』の試写+トークの会がある。僕はそのトークに登壇する。自分自身が書いた『ビクトル・エリセDVD-BOX』各作品の解説リーフレットを読んだりして予習(復習?)中。本当は事前に『瞳をとじて』の方も見ておきたかったのだが、今回はプレス試写に呼んでいただけなかったので仕方がない。


さて、DVD-BOXの仕事の際、担当の編集者からは『マルメロの陽光』もクリティカル・エディション作りたいから、その折にはエリセの通訳を務めたときの話などを盛りこんで書いてよ、と言われ、その気になっていたのだが、結局『マルメロの陽光』はその後再版されていない。だからというわけではないが、思い出話を。


1993年、博士課程に通っていた僕は、『マルメロの陽光』のプロモーションにやってきたビクトル・エリセの通訳として数日、彼に同行したのだった。記者会見でも、その後の囲み取材でも、メディアごとの個別のインタビューでも、二度を除いて(『マリ・クレール』のための蓮實重彦との対談――これは直接、ふたりがフランス語でやり取りした——とNHKでのインタビュー――NHKは独自に契約している通訳の人が務めた――がその二度の例外)記者やライターとのやり取りを僕が通訳した。


事前にプレス試写会で作品を見せてもらい、その数週間後、記者会見の前日に本人に紹介された。今はなき六本木プリンスホテルのロビーでのこと。フランス映画社の川喜多和子さんが、まだビクトルが部屋から下りてくる前、「このホテルはジャームッシュのお気に入りでね」と何気なく口にした瞬間、僕は緊張したのだった。そうだった、今、僕の目の前にいるのは日本における外国映画の歴史を作ってきた最重要人物なのだと改めて気づいたからだ(その周辺のことをここに書いた。リンク)。


そんな緊張に包まれた直後、ビクトルがロビーに姿を現した。長身で、視界が塞がれ、僕はますます緊張した。そうでなくても緊張症で人見知りな僕はしどろもどろになり、言い間違え、聞き間違え、きっとフランス映画社の柴田駿さんと川喜多さんはこの人に通訳などまかせて大丈夫だろうかといぶかしんだに違いない。


でも大丈夫。隣の居酒屋(〈田舎屋〉だったか?)に移って食事をするうちに打ち解けていった僕は普通に話をすることができるようになった。ビクトルは自分の言うことをじっくりと考えながらゆっくり話す人だったし、波長も合ったので、彼の発話にはすぐ慣れた。通訳は問題なさそうだ。逆に、僕にはスペイン語で、柴田・川喜多夫妻にはフランス語で相手をするビクトルの方が疲れたのではあるまいか。


翌日帝国ホテルで記者会見、その後の囲み取材に始まり、次の日から数日はプリスホテル内の部屋で媒体ごと個別のインタビューを受けた。専属の記者たちというよりはそれぞれの媒体と個別に契約したフリーのライターたちといった雰囲気の人が多く、皆、熱く『マルメロの陽光』について、そしてエリセの他の作品について語り、作家もそうした情熱溢れる質問に嬉々として、かつ真摯に応じていた。アントニオ・ロペスがベッドに寝転がるシーンで手に持っているボールはどこから? とか、あそこのシーンでのベートーヴェンは、……といったトリビア的な質問が出てくるとことさら嬉しそうだった。


とりわけ印象深いのは次のエピソード。


ある日、ある雑誌のインタヴューを受けた。その会社まで出向き、インタヴューを受け、表紙用に写真を撮った。そのインタヴューでのこと。その雑誌の主旨なのか、今回の映画の話はそこそこに、記者は何かにつけて家庭の話、妻子の話を聞き出そうとしてきた。ビクトルは徐々に苛立っていった。最終的には怒りを顕わにし、「あなたはあの映画を観たのか? これは映画についてのインタヴューではないのか? なぜ映画に関係ない私の家庭の話を聞きたがる?」とまくし立てた。


その後のフォトセッションでもなかなか機嫌の直らなかったビクトルとフランス映画社の人々と僕は、その会社を後にしていったんフランス映画社のオフィス(ここがまたすごくいい感じのところだったのだ!)に寄って、それから近辺で昼食を摂ろうということになった。


地下鉄の出口を出た瞬間、道路を挟んだ向こう側のビル(高島屋か松屋、あるいはその他銀座にある百貨店のひとつだったと思う)のファサードの外壁にかかった大きなポスターを見て、「あれはリュウだろう? 小津の映画によく出ていた笠智衆だろう?」と確認するビクトルはさっきまでの作品が無視されて不機嫌な芸術家ではなく、ただのシネフィルだった。ポスターでは笠智衆がおなじくらいにこやかに頬笑んでいたのだ(当時、CMに出ていた烏龍茶のポスターだっただろうか? はっきりと憶えていない)。ああ、この人は映画の世界に浸っていると幸せになれる、根っからの映画人なのだな、と強く印象づけられたエピソードだ。


その後まもなく笠智衆は亡くなった。まだ若いのに川喜多和子さんも亡くなった。


ビクトルはそれから30年生きて、新たな長篇を見せてくれるのだ。

(ちなみに、93年の来日時にビクトルがいちばん嫌がった質問が、『エル・スール』からの10年間、何をしていたのという質問。だから『瞳をとじて』が31年ぶりの作品などとは決して言うまい。ただ、31年ぶりの長篇であるだけだ。)



(写真はイメージ)