2019年7月1日月曜日

曖昧を楽しむ


立教のラテンアメリカ講座、スペイン語上級読解の授業で読んでいるのは:

Juan Gabriel Vásquez, Las reputaciones (Barcelona: Alfaguara, 2014)

一度に5ページばかりも読めば1年で読み切る計算だ。この作品に関しては安藤哲行さんが松籟社のウェブに紹介している(リンク)。

しかしまあ、僕なりのしかたで内容をまとめてみよう。新聞の戯画作家ハビエル・マヤリーノがその40年のキャリアを讃えられ、勲章というか栄誉賞をもらうことになった。その晩、別れた妻のマグダレーナがボゴタ郊外にあるマヤリーノの家にやって来て、ふたりはヨリが戻せそうだ。翌日、マグダレーナが次の日の昼食をともにする約束をして仕事に戻ると、今度は前日のパーティで知り合ったサマンタ・レアルがインタビューと称してやって来る。彼女がジャーナリストだというのは嘘で、実は前日の授賞式でうつされたマヤリーノの家を見て、見覚えがあることに気づいたから、確認にやって来たのだ。しかし彼女は、ここで何があったのかまったく覚えていなかった。マヤリーノは語って聞かせる。彼とマグダレーナが離婚したころ、人里離れたこの家に引っ越したマヤリーノは、引越祝いのパーティーを盛大に開いた。そこに娘ベアトリスの友人としてやって来たのがサマンタだった。二人はいたずらに酒を飲んで酔っ払って寝てしまう。その間にやって来た政治家アドルフォ・クエヤルが、どうもサマンタにいたずらをしたらしい。迎えに来た彼女の父が気づき、クエヤルに詰め寄る。マヤリーノはクエヤルの少女趣味をからかう戯画を発表。政治家は危機に立たされる。まったく記憶がないし、そんなことどうでもいいと言い張るサマンタは、しかし、肉体的には反応していて、記憶の不在に苦しんでいるらしい。ことの真相を確かめるべくマヤリーノはクエヤルの未亡人に会うことを勧める。

……と、安藤さんの紹介した箇所の少し先まで紹介したが、結末部分は書かないでおこう。これから読む人の興味を削がないためにだ。が、ところで、これを読みながら、一部の受講生が、マグダレーナは実は死んでいるのではないか、との疑問を抱いたようだ。教材決定に当たっては安藤さんの紹介を確認し、その後かなりの飛ばし読みで大体の内容を確かめて決定したし、授業の予習はまだ進んでいないので、読み飛ばした箇所にマグダレーナの死を匂わせる、あるいは明記した箇所があったらどうしようと思って、もう少し詳しく(飛ばさないように一言一句確かめながら)最後まで読んでみた。死んでいなかった。よかったよかった。

記憶のあやふやさが主題のひとつではあるだろう。だから認識が曖昧であることを記述する箇所がある。単語の選択などにも不確かさを印象づけるものがある。だから実在が疑われたのだろう。しかし、その点で焦点になるのはサマンタがトラウマとして抑圧し忘れてしまった性的虐待が本当になされたかどうか、そして、いかにも戯画らしい曖昧な表現であったとはいえ、状況証拠だけでクエヤルを攻撃したマヤリーノの記憶だ。さらに、そのように描いたことによって対象を追い詰めることになった戯画のジャーナリズムとしてのあり方の問題も、小説の要だろう。「過去のことだけを覚える記憶って、ずいぶん貧困」という『鏡の国のアリス』の白い女王の科白が結末を導く論理となる。

翻訳された3作(『密告者』『コスタグアナ秘史』『物が落ちる音』)や、この後に発表したLa forma de las ruinas(廃墟の形)などに比して(とりわけ最後のものに比して)短いけれども、文章は濃密(戯画作家としての視点と記憶の曖昧さを表現するための叙述の多義性)で、読解力は鍛えられる……のではないかな?