2016年1月31日日曜日

書物の解体学

そういえば、加藤典洋『村上春樹は、むずかしい』(岩波新書、2015)について、最近、誰かと話したのだが、誰と話したのだろう? 最近、この種の記憶力が悪くなっているように思う。

下の写真、右手にあるのが、その実物。持ち歩いて読む時には、こうしてカバーを外すのが僕の最近の流儀。

持ち歩くと言えば、……

今朝の『朝日新聞』読書欄「文庫」のコーナーでは

永江朗『本を読むということ――自分が変わる読書術』(河出文庫、2015)が紹介されていた。この本の面白いところは、本の切断のしかた、再接合のしかたなどが指南されていること。厚い本など、切り刻んで持ち歩けばいいじゃん、というわけだ。ボラーニョ『2666』の邦訳が話題になった時、あれを7分冊に切り分けて持ち歩いていると誰かが言っていて(金原瑞人さんだったか?)、なるほど、解体、というのも書物とのつき合い方のひとつなのだと頷かれるところだ。

読んだ記憶も忘れたい渡部昇一『知的生活の方法』のハードカバー豪華製本の本を蒐集するフェティッシュな喜びとは正反対な本への愛情だ。

ハードカバーと言えば、解体、ではないが、一時期、僕はハードカバーのソフトカバー化に凝っていた。元々ペーパーバック好きだし、ハードカバーでは収納にも少しばかり場所を取る、いかにも1冊につきほんのわずかではあるが、それが何百冊と重なればかなりのスペースになる、と思っていたので、本棚を少しでも広く使いたいとの思いも生まれた。

そんなわけで、ハードカバーの本のちり、というのかな? あの厚紙の部分(それとも、あれこそ表紙? ちりははみ出した部分?)を切り取り、カバーを見返しに貼り付けてソフトカバーにした。そんな本を何冊も作って本棚のスペースを作った(気になった)。

ジュリア・クリステヴァの本などそうしてソフトカバーになっている。写真は『セメイオチケ』下巻と『テクストとしての小説』


これ、意外とお薦めなんだけどな。