2013年8月14日水曜日

極限はどこにある

ホセ・ドノソ『境界なき土地』寺尾隆吉訳(水声社、2013)

訳者の寺尾隆吉が「あとがき」冒頭に、死後明らかになった作家本人の淫靡な性向の話題をほのめかし、その後、この小説のリプステインによる映画化作品にプイグが脚本家として加わったという話題などまで出しているので、われわれ読者はマヌエラという性倒錯者(いわゆる「おかま」)をめぐる過去と現在、ふたつの嬌態をクライマックスとしたこの小説の、クイアな世界にまず目を向けてしまうのかもしれない。

「ふたつの嬌態」のうち過去のものは、踊り子としてある娼館にやってきたマヌエラが男たちに愚弄され、傷つき、その隙を突かれてハポネサという娼婦と関係を持ってしまうという話。現在のものはそのマヌエラがパンチョという男と関係を持つのか、持たないのか? という話。

性の問題に関していうなら、マヌエラのクイアネスよりも、彼女を愚弄し、時には関係を持とうとさえする男たちのマチスモの方が怖い。それに乗じて彼女と関係を持ち、子をもうけ、娼館まで手に入れるハポネサの狡猾さが怖い。ハポネサは地元の有力者ドン・アレホと賭けをして、その娼館を自分のものとし、マヌエラを共同経営者とするのだ。ドン・アレホは代議士で、国道が通ろうとするこの町を投機の対象とするが、結局は電気ひとつ通すこともしない人物だ。が、パンチョは自分が彼の子だと言い張り、マヌエラとハポネサの娘ハポネシータも彼の子だと思っている。土地はすべて彼のもの、人はみな彼の子供という、ペドロ・パラモみたいな人物だ。そんな彼への借金による負い目とその精算の問題が、パンチョをマヌエラとも関係を持ちそうな勢いのひとりのオスに変えているようなのだ。

そうしたクイアネスとマチスモを表現しているが、造り自体は端正な小説だ。各章にひとつずつ新しい情報を導入したり、視点を変えたり、話法をあれこれ取り入れたり、ドン・アレホとパンチョの関係の処理も短編小説のようだったり、と。

何より、人里離れた一軒家、という典型的な場面設定が雰囲気をつくり出している。別荘とか、田舎の家とか、町はずれの娼館、といった、閉ざされた空間だ。電気の切断はこうした空間を切迫感ある場面へと変える(同じチリのアリエル・ドルフマン『死と乙女』など)。この町、エスタシオン・エル・オリーボは、そもそも電気が通っていないし、通る見込みもない場所だ。

こうした場所に外部から車の音やクラクション、馬のひづめの音、犬の吠え声などがもたらされたら、切迫感はいや増す。馬にしても車にしても、こうした外部からの音は性的強迫観念をも思わせるだろう(『死と乙女』もそうだ。そして馬ならばガルシア=ロルカだ)。これらの設定をして端正と言わざるを得ないのだ。


端正な放縦。あまりに端正すぎてどこから引用すればいいのかわからないぜ。