2025年11月2日日曜日

ギターを聴こう

実は先週の土曜日にはわが家の比較的近所でレオナルド・ブラーボ(日本在住のアルゼンチン人ギタリスト)を聴きに行ったのだが、今日も、ギター。


大萩康司デビュー25thコンサート「原点回帰」レオ・ブローウェル室内楽曲集@東京文化会館小ホール。


同年代より下のアーティストなどをその活動のごく初期から認識していると、ついついこの人は俺が育てた、みたいなことを言いたくなるのが年寄りの悪い癖。そんな癖を発揮したくなるひとり、大萩康司ももう25年になるのか、しかもブローウェルをやるのか、これは聴きに行かねば、と思った次第。

 

定番中の定番「11月のある日」(これの前半部を下手なりに練習する、その自分の音に慣れてしまった今、大萩の演奏の美しさに目が覚める思いである)に始まり、松尾俊介(コンセルヴァトワールの同期生らしい)とのデュオで2曲。「トリプティコ」(3部曲)と「ミクロピェサス」(5曲=ピェサス=)、そしてメゾソプラノの波多野睦美を迎えての「愛の歌曲集」。歌曲は3曲だが、最後はガルシア=ロルカの詩のようだ。ブローウェルが歌のある曲を書いているのは知らなかった。初。波多野の透きとおるメゾソプラノの声が素晴らしかった。


休憩後、ふたたびソロで「鐘のなるキューバの風景」。いかにもブローウェルらしいミニマリズムと日常の音の擬声に満ちた曲。そして「クインテット(ギターと弦楽四重奏のために)」。これも初。大萩が高校生の頃、沖縄で村治佳織が演奏するのを聴いて興奮し、村治にきいてすぐに楽譜を手に入れた曲だそうだ。ヴァイオリンの瀬崎明日香、加藤えりな、ヴィオラの田原綾子、チェロの上森祥平とともに。特に2楽章でのヴィオラが存在感を放っていた。ブローウェルというと、指の横腹で6本の弦すべてをバーンと叩くフレーズが印象に残るのだが(たぶん、映画『低開発の記憶』の音楽に由来する)、ヴァイオリンも弓で弦を叩いたりしていた。楽しい曲だ。

 

アンコールはエリセオ・グレネ/ブローウェルの「キューバの子守歌(ペルスーズ)」、そして最後にふたたびの「11月のある日」。違うギターで弾くと違って聞こえるのである。



さばの味噌煮を頼んだら、思いがけず半身まるごとの味噌煮であった。


2025年11月1日土曜日

『サムシング・ハプンズ・トゥ・ミー』なんて邦題、本当にやめて欲しい

アントニオ・メンデス・エスパルサ『サムシング・ハプンズ・トゥ・ミー』スペイン、2023@シネマ・カリテ

 

フアン・ホセ・ミリャスの『誰も寝てはならぬ』Que nadie duerma ( 2018 ) の映画化作品。映画原題も同じ。ならばなぜこんなタイトルになるのか? それは映画内演劇のタイトルAlgo va a pasar に由来するわけだが、それにしても『何かが起こる』ではなぜだめなのか? 映画館の案内の女性はこのタイトル、発音するのに苦労していたぞ。こんなタイトル、本当にやめていただきたい。せめて語呂の面から言っても英題の音表記で許されるのは(冠詞を除く)2語の句だけだろう。パンフレットでも公式サイトでもロクに俳優の紹介もしない(パンフレットではふたりの女優だけが紹介されている。インタヴューで監督が何度も原作に触れているのに、原作者ミリャスの紹介すらしない)配給会社のこの作品への愛が疑われるところ。


映画の内容自体は、いかにもミリャスの原作の雰囲気を再現し、面白いものだ。20年来勤めたIT会社の社長が横領して逃亡、失業したルシーア(マレーナ・アルテリオ)は、タクシーの運転手になる。それ以前、アパートの通風口から聞こえてくる(この辺がいかにもミリャス的だ)『トゥーランドット』に魅了され、音を辿って上の階の男性の部屋に行く。男(ロドリーゴ・ポイソン)は俳優で、オペラにちなんでカラフと名乗った。ルシーアは彼と恋に落ちそうになる。が、その矢先、カラフはいなくなる。彼は実はブラウリオという名だった。ルシーアは声楽の個人レッスンに通うほどに「誰も寝てはならぬ」が気に入ったようだ。


タクシー・ドライバーとして最初に乗せた客ロベルタ(アイターナ・サンチェス=ヒホン)は演劇プロデューサーで、ルシーアは彼女と仲よくなり、色々と相談したりする。


一方で、ある晩、酔っぱらったかつての会社の社長エレーロス(マリアーノ・ヨレンテ)を乗せたルシーアは彼が寝入ってしまったので高架下に放置、不払いの給料代わりに金品も奪う。エレーロスは翌日、屍体として発見される。人を殺したかもしれないという恐怖もミリャス的と言えそうだ。


また、作家のリカルド(ホセ・ルイス・トリーホ)とも関係を持つに至るが、……(ここから先は、ここでは明かさないようにしよう)


実はミリャスの原作は未読なのだが、カタストロフの不気味さも、ミリャス的ではある。


写真(意図してピントをぼかしている)は東京国際映画祭の会場・日比谷。今日はここで観たわけではない。ましてや屋外ではない。



2025年10月29日水曜日

アメナーバルによるセルバンテス

ラテンビート映画祭@東京国際映画祭で2本。



ミシェル・フランコ『ドリームズ』メキシコUSA2025


メキシコから不法移民としてサン・フランシスコにやってきたダンサーのフェルナンド(イサク・エルナンデス)は、メキシコのバレエ・スクールに出資するなどしている慈善文化事業団体の娘ジェニファー・マッカーシー(ジェシカ・チャステイン)を頼っていく。しばらく愛欲をむさぼる二人だったが、やがてフェルナンドは家を出て、モーテルで働くなどして自らの力でダンサーとして身を立てようとする。ジェニファーはフェルナンドを探し、追い、まとわりつく。


いったんはサンフランシスコ・バレエ・カンパニーに所属を許され、プリンシパルの座も射止めたフェルナンドは、再びジェニファーの家に戻り、またしても愛欲をむさぼる。そして彼は、移民局によって強制送還される。ジェニファーはメキシコに戻ったフェルナンドに会いに行き、逆に監禁されてしまう。


いかにもフランコらしい悪意に満ちた愛憎劇だ。加えてUSA-メキシコ間の移民の難しさの問題をも扱っている。


しかし、なんといっても、フェルンドのダンスが見事だ。と思ったら、演じるエルナンデスは実際のバレエ・ダンサー。サンフランシスコにも所属していたことがあり、現在はアメリカン・バレエ・シアターのプリンシパルなのだそうだ。なるほど、俳優にダンスを教えるより、ダンサーを俳優として使う方が確かである。




アレハンドロ・アメナーバル『囚われ人』スペインイタリア2025


セルバンテスがアルジェで捕虜になっていた時期のことを扱ったフィクション。


『ドン・キホーテ』終盤の〈捕虜〉の物語をベースにしたストーリーによって捕虜仲間の人気者になったセルバンテス(フリオ・ペーニャ・フェルナンデス)は当地のパジャ(知事)(アレッサンドロ・ボルギ)に物語を話すことによって生き延びる。イタリア生まれのパジャはイスラム教に改宗し、太守の愛人となることによって成り上がった人物だった。


物語の報酬としてつかの間の自由を得たセルバンテスはアルジェの町に出たりするうちに脱獄計画を立てる。裏切りによって何度か失敗するが、それでも身の代金が送られてきたことにより解放されることになる。


セルバンテスのアルジェでの捕虜生活は知られているが、その内実は謎のままだ。そこに〈捕虜〉の物語を改編して重ね、アラビアンナイトよろしく物語によって延命を勝ち取るセルバンテスに『ラサリーリョ・デ・トルメス』や『アマディス・デ・ガウラ』らの作品を読ませ、楽しませる。身柄を引き受けに来る修道士とその従者の登場はドン・キホーテとサンチョ・パンサのシルエットそのものだし、マンブリーノの兜を思わせる小物など、くすぐりに満ちている。


そしてなにより、そこに男性同性愛という発想を絡めているところが秀逸。セルバンテスをクィアなシェヘラザードに仕立てているのだ。さすがはアメナーバルなのである。




2025年8月1日金曜日

思わず叫びたくなる映画

 アレハンドロ・ロハス、フアン・セバスティアン・バスケス『入国審査』アルベルト・アマン、ブルーナ・クーシ、ラウラ・ゴメス他、スペイン、2023


グリーン・カードの抽選に当選したので移住するためにUSAに向かったカップルが、NYの空港の入国審査で止められ、尋問を受ける。ふたりは事実婚のカップル。そして当選したのは妻エレーナ(クーシ)の方であり、夫のディエゴ(アマン)は、その夫としての身分で入国するつもり。そのことから始まって、いろいろと疑いの目を向ける審査官にふたりは追いつめられる。審査官バスケス(ゴメス)はスペイン語を解するため、スペイン語、カタルーニャ語、英語入り交じりの展開となる。

 

ディエゴはベネズエラからスペインに移住した人物で、そのことはエレーナも知っていたのだが、ベネズエラ滞在時から、いろいろなルートでUSA移住をもくろんだことがあっらしい、そうした履歴が明らかにされ、疑心暗鬼が高まる。

 

監督たちがベネズエラからスペインに移住したときに経験したことを基に発想したそうだ。それがさらにUSAへの移住となると、ましてやトランプ政権期の現在(冒頭のバルセローナの空港に向かうタクシー車内のニュースがトランプの例の壁のことを伝えている)、さらに障壁は高くなり、尋問への苛立ちは増す。かつてダラスの空港で、ここまで厳しくはなかったものの、別室でいろいろと質問され、乗り換えが危ぶまれた(間に合ったけど)僕としては、本当に身につまされる。何度もそのときの碇を思い出し、叫びそうになった。


ディエゴはベネズエラ人だが、それを演じるアマンはアルゼンチン人。しかし、ベネズエラ風のしゃべり方を実にうまくやっている(少なくとも僕にはそう聞こえる)。


今日が公開初日。池袋シネリーブルにて観賞。


写真は先日現代文芸論研究室で行った合宿の宿泊所裏の滝。涼しそう。




2025年6月18日水曜日

青空はビルに反射し……

試写で観てきた(リンク)。(このブログのタイトルと映画の内容は無関係)


ロレーナ・パディージャ監督・脚本『マルティネス』フランシスコ・レジェス、ウンベルト・ブスト、マルタ・クラウディア・モレノ他、メキシコ、2023


グワダラハラとおぼしきメキシコの都市で30年にわたって働いてきたチリ人のマルティネス(レジェス)は、偏屈な独り暮らし。仕事場にはビシッとダブルブレストのスーツを着て行くし、起きたらすぐに腕立て伏せをするような人物だが、会社からは定年退職を勧められ、後任のパブロ(ブスト)に引き継ぎ、研修するように言われる。

 

一方、古めかしい感じの残るアパートでは、真下の部屋の住人の止まることのないTVの大音量に苛まれている。じつはその住人アマリアは半年ばかり前に孤独死していたことが発覚する。このアマリアの遺品の中に自分へのプレゼントが入っていたことから、粗大ごみ処理されるはずだった残りの遺品を引き受け、小物やクロスなどを殺風景な部屋に飾り始める。残されたテープを聞いたり、彼女のスケジュール表やToDoリストに書かれていたこと(プラネタリウムに行く、など)を代わりに実行に移す。女性雑誌 Vanidades を読み染み取りの方法を知ったり料理を作ったりするようになる。

 

ちょっとしたことからパブロや昔からの同僚コンチータ(モレーノ)に恋人の存在を勘ぐられたマルティネスは、プラネタリウムで仕込んだ情報を利用してすてきな話をでっち上げ、同僚たちの感動を誘う。


そこから少しずつ同僚と打ち解けていく。


偏屈な老人が心を許していく物語はこれまでにもいくつかあったが、死んだ隣人の遺品を引き受けることによって人格が軟化していくというのは面白い。ガーリーなものは癒やしなのである。いつの間にかエプロンなどを着けるようになっている初老の頑固者がかわいらしい。


TVも仕事場のPCもブラウン管の時代で、スキャナはかろうじて既に存在している、という頃の時代設定。テープレコーダーは埃を払わなければならない。そんな時代にチリ出身でメキシコで30年働いている人物という設定だと、どうしてもピノチェトのクーデタや軍政を機に移ってきたという背景を想像したくなる。映画内では特に説明はされていないけど、そのくらいの想像は働かせたくなる。


これはパディージャの初監督作品とのこと。


(ブログのタイトルはこの写真のこと)



2025年6月2日月曜日

一つ家に泣聲まじる砧かな(子規)

変則カレンダーで今日は授業のない月曜日。試写に呼ばれて映画美学学校映写室での試写に行ってきた。


宇和川輝監督『ユリシーズ』日本、スペイン、2024


3つの場所で展開する3つの物語。いや、物語がそこで展開するのではない。そこにいる人びとがそれぞれに物語を抱えているという形。


まず最初はマドリード(らしい)のアパートに暮らす母と子の会話から始まる。会話はロシア語でなされる。父親がどこかに出稼ぎに行っているらしい。やがてクリスマスがやって来て、母子はクリスマス・ツリーの装飾を始める。男の子が3Dのゴーグルで何かを見ながらはしゃいでいる。ロシア語で話していた彼が不思議とスペイン語らしいイントネーションに変化していく。ときおり、 “Soy viejo italiano” などとはっきりとしたスペイン語のセリフを発する。ゴーグル内で展開する物語がきっとスペイン語によるものなのだ。ここで観客ははじめて、ここがロシアではないのかもしれないと疑いを抱くことになる。


母子は別の家にお呼ばれしているのか、男ふたり女ひとりのスペイン語話者に交じってスペイン語で会話している。確かにここはスペインなのだと観客は確信することになる。男ふたりはゲイのカップルなのか、ガルデルの歌をかけるとふたりで踊り出す。

 ……

ふたつめの場所はサン・セバスティアン(なのか?)の海岸。若い女性ふたりが一方の恋人(なのか?)に関する愚痴を言っている。そこに現れた東洋人(たぶん日本人)は無言でふたりに近づき、そのうちのひとりと歩き出す。無言で。


どこかの建物の玄関先のような場所で、男は英語で子供のころの父との思い出を語る。


男はイズミというのだろう、今度は雨の中を走る車に乗っているらしい。そこでそう呼ばれている。女性ふたり(ともうひとり男性がいたかも?)が彼を滞在先まで送っていくところらしい。

 ……

サン・セバスティアンでのパートが終わると、夏の日本の(岡山らしい)田舎町に舞台は移る。何の説明もないのに、場面が切り替わった瞬間にそこが日本だとわかるのは、田圃と蝉の鳴き声のおかげなのだろうか? 夫を亡くして一人暮らしの老女が、その夫の墓参りに来た孫たち(ひとりは監督・宇和川本人)と盆を過ごす。亡き夫/祖父の思い出を語ったり、玄関先で火をおこしながら祖父の到来の声を聞いたりする。ここでも雨の中を車が走る。


憶えている細部をすべて書き写すことはしないが、そこにいる者たちのひとりひとりが抱える物語だけでなく、不在にも等しい存在も感じられる。そもそも最後は日本のお盆の話で、死者を迎える話でもあるのだから見えない者がいてもいい。多言語状況の中でまったく理解できないがゆえに不在に等しい者がいてもいい。



老舗名曲喫茶ライオン。久しぶり。



2025年5月6日火曜日

思い出にとらわれる

テレビが邪魔になって受像機を手放し、数年間、観ずにいた。テレビ番組で必要なものはNHK+ や TVer で観た。DVDやブルーレイを観るときはプロジェクターを使っていた。


が、プロジェクターはそのために常設でないスクリーンを本棚の前に掛けたりするなどの準備が必要で、億劫だ。配信はPCのモニター(27インチ)で観ればいいが、ディスクはそのうち観なくなった。そこで考えた打開策が、これ。



ポータブルTV。(写真は何週か前のクラシック音楽館の模様)


ふだんは台の上にしまい、必要なときだけテーブルに載せて観る。ディスクを観るためのセットアップもプロジェクターよりははるかに楽なのでいい。


で、今日、古いTVに使っていたHDDレコーダーに録画したものをチェックしていたら、けっこう色々と録画している。映画や、友人の出た番組、資料になりそうないくつかの教養番組・ドキュメンタリーなどだ。僕は以前、BBCが製作しNHKが放送した2002年のベネズエラのクーデタ未遂事件の検証番組を、録画せずにただ観るだけ観て後から後悔したという経験から、いくつかの番組を録っておいたようだ。


そのなかに、かつてNHKBS2で放送されていたBSブックレビューで佐々木敦が『野生の探偵たち』を紹介したものの録画があった。つい見直してしまった。懐かしさにしばし茫然とした。


ところで、いまでは小さなHDDでもTV番組を録画できるのだが、この昔の、DVDプレーヤーを兼ねるHDDレコーダーのデータ、どうにかしてそんなHDDに移行できないだろうか? データの移行と、それを終えた後の昔のプレーヤーの処分が頭の痛い問題なのである。

2025年5月5日月曜日

映画週間第二弾あるいは詩的昂揚について

昨日、5月4日(日)には


ラウラ・シタレラ、メルセデス・ハルフォン『詩人たちはフアナ・ビニョッシに会いに行く』(2019を下高井戸シネマで観た。


フアナ・ビニョッシ(1937-2015)の遺品整理を託された若い世代の詩人メルセデス・ハルフォンが、その様子をシタレラたちの映画クルーに託し、かつ、その映画人たち撮影の様子を観察したもの。映画人から詩人への詩人から映画人への視線の交錯から疑似土キュメンたりーのような物語が立ち上がる作品。映画人は詩人の探求の作業に演出を入れようとして指図する。メルセデス(詩人)は記録を求め、ラウラ(映画人)はフィクションを求める。朗読によって集団性を目指す詩人に対し、端から集団的な創作体制である映画人たちはフアナの詩を朗読(音読)できずに銘々に黙読するだけ。


そこでみつけたある本(アレクサンドラ・コロンタイ『性的に解放された女の自伝』)の「私」を「私たち」と複数形にすべきだとのフアナの書き込みは、同時期に撮影していた『トレンケ・ラウケン』への道筋を開く。


フアナの詩は、映画内での若い詩人たちの朗読として、オフの声として、テクストとして提示される。詩を朗読する者のうちに三度ばかり読み直す人物がひとりいる。三度目に読むときには彼には明らかにある種の気分の昂揚が見られる。詩の読み方が明らかに最初とは異なっているのだ。


スペイン語の詩の朗読は、伝統的にはアクセントのある音節を強調し、普段より長めに発音するものだ。E—sta no—che, pue—do escribi—r el ve—rso má—s tri—ste del mu—ndo という具合だ。パブロ・ネルーダなどはこうした読み方を保持していた。近年失われてしまったこうした調子に、少し近づいているということだ。これが詩的昂揚。


この朗読者がこの昂揚を獲得する瞬間が、実に感動的であった。


写真はとある街角の風景。