2017年5月6日土曜日

読むことの困難

立教大学のラテンアメリカ講座というところで文学の授業を持っている。土曜日だ。今日はまだ連休という人もいようが、授業があったので行ってきた。

昨日(日付の上からは今日、未明)書いたように、大学の授業料は(少なくとも国立大は)無料であるべきだと思う。大学なんて無料にして、一律18歳ではなく、何歳からでも学べるようになればいいと思う。今でも何歳からでも学べるには学べるし、ひところに比べて引退した人や子育てを終えた人なんかが学び直すという例は増えているとは思うが、それがもっともっと当たり前になればいいのだと思う。文学部など、大人なくらいがちょうどいい。

さて、大人でもなかなかクリアできないことがある。読むことの難しさだ。とりわけ、小説の冒頭を読む難しさ。

昨夜、こんな記事をツイッターで紹介した。


同意して笑ったり、これは自分だ、と言ったり、逆に、俺は最初からのめり込むからこんな気持はわからない、と言ったり、……様々な反応があった。

すべての小説(中には冒頭に世界を構築せず、読み手に負荷を与えないものもあるが、そうではなく、冒頭でまず濃密な世界構築を行うタイプの小説)に最初からのめり込むことができる人は幸いだ。僕も多くは読むのに抵抗を感じない方だとは思うけれども、それでも引っかかってなかなか先に進むことのできない小説というのがある。そんなものに出会ったとき、人はどうすればいいのか?

とりあえず、読むのをやめる。一時的か、それとも永久に。

それもひとつの手だ。単なる趣味の読書ならそれもよかろう。相性が合わないとか、今は読むべき時ではない、と考えるのだ。が、義務として(学校の課題や仕事で)読まなければならない小説というのがある。僕など、最近はそんなものが多い。そういうときには、では、どうすればいいのか? たぶん、対処法はふたつ。

1) 深く考えず、ただただ先を読み進む。

2) メモをとる。

1)の場合でも、読み進むうちに思い出すべきときがくれば、意識化されていなかった情報が引きずり出されて思い出されるものだ。だから、全然気にすることなく、読み進めよ……以前はそう思っていたのだが、近年は世界へのアタッチメントを失いつつあるのか、なかなか思い出せないことがある。その場合には読み返す(一度、もしくは何度も)ことを覚悟していればいい。あるいは何かわからないことがたくさん残ることになっても気にしない、という態度でいれば。

2)の場合、何でもいい。人の名でも地名でも一般名詞でもわからない漢字でも。ともかく、充分なスペースを空けて書いておく。メモ帳の1枚に1項目というのでもいい。書いておくのだ。読み進むうちにその語についての新たな情報が加わる(ことがある)。そしたらその語の横にまたメモしておけばいい。やがて、重要な語や名前には情報がどんどん付加され、ついには小説が描いている仕方とは異なる仕方で世界が現れてくる。だから、できればこのやり方を勧める。

しかし、小説というのは他の書物と違って読むのに時間がかかるものだ。いつもメモが取れる状態で読むとは限らない。電車のなかで立ったまま読むかもしれない。電車を降りてゆったりとお茶でも飲みながら読むこともあるかもしれない。だから現実には1)と2)の混合で臨むことが多いのだろう。

伊藤聡さんがかつて、ご自身のツイッターで、15分ずつ区切って本を読むのだと書いていた。タイマーで計って15分。集中して読んだら、あらすじなどをメモするのだと。そういう形態もいいかもしれない。だから、電車の中で読むときは、とりあえず、15分読む。そして、しばらく頭の中でメモを取るシミュレーションをする。読んだことよりも自分が書こうとしたことは忘れないから、電車を降りてから、それをメモに書き写す。そういう手もいいかもしれない。

電車に15分乗っていればの話。

でも、本当に読みづらさを解消するのは、次の方法なのだ。

3) 外国語で読む。

外国語だと読みづらさを自分の言語能力の低さのせいにできる。それを克服しようと様々な努力をする。辞書を引いたり、読み返してみたり……


僕もこれまで、どれだけ相性が合わないかもしれない小説をスペイン語(や英語やフランス語、等々)で読むことによって困難を克服して読み終えることができたか……