2015年2月4日水曜日

どこまでも下衆な人々

ぼくは親しい友人のため以外で涙を流したことはそんなにない。あ、それからフィクションの中の人物(それは結局のところ親しい友人なのだ)のためにも流した。ともかく、自分のためや、見ず知らずの遠い他人のために涙を流したことはない。

ところが、最近、まったく見ず知らずの人のために涙を流しそうになった。後藤健二や湯川遙菜という、このたび殺された二人の遺体の引き渡しを求めないと安倍晋三が発表したときだ。あまりにもひどいじゃないか。

加えて、今日はこれだ。髙村正彦が後藤さんの活動を「蛮勇」と称し、これに続く者も蛮勇にいたらないようにと釘を刺した。

死者を埋めるまではその土地に根づいたとは言えない。それが『百年の孤独』の前半の基本思想だ。裏を返せば、根づいた土地に埋められない死者はあまりにも哀しい。大して救出の努力もしなかった政府が、加えて遺体の引き渡しを求めないのならば、見殺しじゃないか。与党総裁が見殺し、副総裁がその見殺しにした死者に唾する。


……責任逃れの逃げ口上としても、あまりにもひどい話じゃないか。短時日のうちに見ず知らずの人物のためにぼくは二度も泣きたくなった。