2018年4月26日木曜日

小説とはマジックである、と奥泉光は言った(僕も賛成)。


飯田橋文学会の現代作家アーカイヴ第14回奥泉光@東京大学駒場キャンパスを見に行った。インタヴュアーは鴻巣友季子。鴻巣さんは奥泉さんのかなりのファンなのだろう、作品を実に詳細に読み解いてインタヴューを構成していた。

最初、マイクのトラブルで生の声でのやりとりを10分ばかりも続けただろうか? マイクを通さないと映像に残らないというので、二次的な話(発行部数とか、そんな話)から始めたのだが、これがなかなか面白く、奥泉さんは「自分の書きたいことでなく読みたいものを書く」ことを自らに課していると言い、鴻巣さんは翻訳は需要が先にあると応じた。

このシリーズのインタヴューは作家自らが選んだ三作品を中心に話を進めるという形式になっているのだが、今回は『吾が輩は猫である殺人事件』、『虫樹音楽集』、『雪の階』の三作品。これらについて語りながら、ストーリーという調性とセンス、他作品からプロット(モチーフと言えばいいだろうか?)を骨組みとして借りること、という創作技法を披露する奥泉さんも実に明解だった。

『雪の階』の視点と文体の問題に関しては鴻巣さんが手品の話を引き合いに出したところ、奥泉光が自分は「小説手品論」というのを唱えているのだと解説。そういえば僕は「マジック・リアリズム」という語がいやで、『百年の孤独』のあるシーンを分析し、つまりこれはマジックの手法なのだ、いささかも「魔術的」などではなく、視点の問題で、小説に普遍的な話なのだと主張したことがあるが(ある短い文章の中で)、そんな僕からすれば、我が意を得たりといった感慨である。

懇親会で、このシリーズでは珍しく主役の目の前に座ることになった僕は、奥泉さんからなんとかという若手のお笑い芸人に似ていると言われた。その人物の名を思いついた時の奥泉さんの嬉しそうな顔は印象的なのだが、ところで、そうなのだろうか? まあ僕は平凡な顔ですから、誰にでも似ているんですよ、と答えておいた。誰に似ていると思うかによってその人の心理が分かる。ロールシャッハ・テストのような顔なのだ。