2017年1月14日土曜日

教えることは誘惑すること

町山智浩『映画と本の意外な関係!』(インターナショナル新書、2017)は、「意外な関係」などと俗情と結託したタイトルをつけているけれども、「意外」でもなんでもなく、どんどん論じ欲しい論題。映画で引用される書物、あるいは映像に映り込み、登場人物が読んでいる書物からそれぞれの映画を語るというもの。フェデリコ・ガルシア=ロルカやランボーの詩から『気狂いピエロ』を語るようなものだ。町山は取り上げていないけれども。このコンセプトで、実際、町山の取り上げなかったフランス映画やイタリア映画、ロシア映画、スペイン映画など、シリーズ化して欲しいくらいだ。

このコンセプトで論じたくて仕方のない映画を、ついでに、見てきた。


これがフィクションだとわかってしまえば、詩と詩神ミューズ、恋愛を講じるバルセローナ大学のイタリア人文献学教師ラフェル・ピントが、教え子と次々関係を持って妻にばれる、という話で、たまたま会場で会った教え子(男)など、出しなに「先生はあんなことしちゃいけませんよ」などと言ってきたわけだが、そんな不倫のストーリーがゲリンの手にかかると実に緊張感を孕んだ実験映画になるのだからすごい。

最初のシークエンスはピントの授業。ダンテ『神曲』地獄編第五歌のフランチェスカとパオロのエピソードを取り上げ、『アベラールとエロイーズ』にも話を広げたりしながら、恋愛とミューズを熱く語っている。次のシークエンスでは受講生のうちのふたりが、授業でのテーマを取り上げ、自分の恋愛に絡めながら議論している。そしてピントと妻らしい人物が自宅のリヴィング兼書斎で、議論している姿が窓の外からのカメラに収められる。『シルビアのいる街で』で素晴らしい効果を発揮した、外の映像の映り込むガラス窓と、それに遮られる室内の映像だ。妻は、恋愛なんて作り物だから、あなたの言うミューズによる女性のエンパワーメントなど無意味だというような反論をしている。

さらには次のシークエンスではピント教授は、妻の意見に感化されたかのように、恋愛は文学作ったものだというドニ・ド・ルージュモンのような話をして、学生たちから意見をもらっている。

……この辺で気づくべきだったのかもしれない。これはこれら恋愛と文学との関係をめぐる文学を下敷きにしたフィクションなのだと。ところが、ここまでの雰囲気から、観客はこれがピント教授の授業を題材にしたドキュメンタリーではないかと思ってしまう。だから受講生のひとりローザとサルデーニャ島に取材旅行を装った不倫旅行に行くシークエンスでも、最初はすっかり研修旅行か何かかと勘違いするのだ。

それにしてもこのサルデーニャ旅行のシークエンスは素晴らしい。牧童たちが自然と一体化し、その声を聴き、それを音楽に表現し、そしてまた身内の者たちを記憶するために詩作を実践していることが語られ、歌が歌われ、詩が詠まれる。象徴派の詩人たちの目指していた万物照応(コレスポンダンス)というやつの可能性がこうして今も生きているのだ。しかも知的な詩としてではなく、生活に根ざした民衆詩として。映画全体から独立してこのシーンを見るためだけに見てもいいくらいだ。

ストーリーに戻れば、そんな話をしてくれた牧童にすっかりうっとりしたローザは、どうやら彼と関係を持ったらしく、ピントから嫉妬されるのだが、性描写などは一切なく、キスシーンすら挟まずに、ただほのめかすだけで男女の関係を語るものだから、まだこれが作られた物語だとは気づかない。

……そんなふうにして観客は詩と自然、詩と愛とをめぐる大学教師の知的探求についてのドキュメンタリーかと思いながら、いつまでも騙されて見続けている。そしてこれがフィクションだとわかった瞬間に、何もかもがおかしくて仕方がなくなる。少なくとも僕は途中からくすくす笑っていた。終わってすぐにまた最初から見返して、笑いそびれた箇所を笑って借りを返したい気分になる。


ダンテらをバルセローナ大学で講じるピント教授の授業ゆえに、イタリア語、カタルーニャ語、スペイン語が入り混じる。ヨーロッパの多言語状況も見逃せないバックグラウンドだ。これだけ独立して見たいと言ったサルデーニャ島では、たぶん、トスカーナ語とは異なるサルデーニャ語も発されている。サルデーニャ語にはamoreという語はない、amoreは翻訳不可能なのだ、サルデーニャ人たちはイタリア人以上に愛するというのに、なんてな科白も実に印象的。