2013年12月26日木曜日

暗い時代の人間の条件

エレーナ・ポニヤトウスカがティナ・モドッティやレオノーラ・キャリントンを小説の題材にしたように、この人はドイツの女性たちにこだわるんだろうな(なんたって『ローザ・ルクセンブルク』の人だから)、という程度の漠然とした意識しか持っていなかったのだが、ともかく、岩波ホールでの上映期間を過ぎて諦めていたところへ、シネマ・カリテでやっているというので、観てきたのだった。

マルガレーテ・フォン・トロッタ監督『ハンナ・アーレント』(ドイツ、ルクセンブルク、フランス、2012)

もちろん、思想家の思考の過程を映画にすることはできない。そうなると、安易なやり方で行けば、彼/彼女の人生を扱った映画を作りがちになる。「暗い時代を生き」、戦争を逃れたハンナ・アーレントについてなら、その手もあっただろう。さらにはこのユダヤ人思想家が、後にナチに荷担したことで問題視される恩師(ハイデガーのことだが)と親密な関係を持った人物となれば、そこに焦点を当ててもいいかもしれない。

が、そんなことはせず、フォン・トロッタが焦点を当てたのは、アイヒマン裁判についてのルポルタージュとそれが巻き起こしたスキャンダルだった。もちろん、アーレントのバックグラウンドだとかハイデガーとの恋だとかへの言及もある。が、それらすべてはアイヒマン論争での人間関係に投影される形で最少限示唆されるのみだ。ベンヤミンとの関係とか、パリ時代の活動、そして夫ハインリヒ・ブリュッヒャーとの出会いなどにはほとんど触れられない。

『イェルサレムのアイヒマン』をめぐっては、激しい論争もあり、そのために書かれた文章も本1冊分あるのだが、それらをドラマ仕立てにして、最後はニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチ(NSSR:一時期、レヴィ=ストロースらも身を寄せた機関だ)と思われる場所の大教室での演説に仕上げている。

ぼくはこうした大学などの大教室のシーンというのはわりと好き。だからまあ気に入ることはできた。

『イェルサレムのアイヒマン』の提起した問題はいくつかあろうが、イェルサレムではなく、国際裁判で裁かれるべきだった、などといった項目は示唆される程度で、ともかく、「悪の陳腐さ・凡庸さ」Banality of the Evil というテーゼを前面に押し出してわかりやすく仕上げた。凡庸な者、陳腐な者が思考を停止するとき、最大の悪が発揮されるという主張だ。モラルの崩壊を招くからだ。


このシンプルなメッセージのアクチュアルさに、背筋が寒くなった。合衆国の警告を無視して、靖国参拝などして見切られた凡庸で思考停止した総理大臣と、その総理を恐れてか、自らの思考に反して付和雷同している党員たちのいる国でこそ、今、観られるべき映画だ。

2013年12月25日水曜日

12月25日を祝う

友人のFBへの書き込みで今日が12月25日であることを思いだした。12月25日は奄美群島本土復帰の日だ。1953年12月25日づけで、日本本土に復帰したのだ。サンフランシスコ講和条約の発効から1年半ほど遅れていたけれども、それ以前、46年2月2日のいわゆる「2・2宣言」で日本本土から切り離すとされて南西諸島軍政府(後に民政、そして琉球政府)の配下に置かれているから、日本に戻るのは約8年ぶりという認識。

ぼくが生まれたのはその約10年後。つまりぼくらが15歳のときには、「復帰25周年」が祝われた。ぼくはそのとき、それを祝うあるイベントに引き出された。

ぼくの記憶では復帰の日の翌26日が日曜日で、その日曜日にイベントはあったはずだった。でも今調べてみたら、実は25日は月曜日だったらしい。ということは、そのイベントは24日にあったのだろうか? それとももう冬休みに入っていて平日だけどその日が祝われたのだろうか?

そのイベントの日は、つまり78年の12月のその日曜日、か25日は、祖母の死んだ日でもある。イベントの終わるころ、祖母の死を知らされた。

今日、名瀬の小学校では復帰60年が祝われ、元ちとせらのステージがイベントに花を添えたそうだ。

そのことに何の異論もない。ただ、復帰運動を展開した人々には優れた知性がいたのだということを、ぼくとしては、あくまでも指摘しておきたいな。名瀬市長として復帰運動を牽引したのは詩人・泉芳朗だった。彼は復帰の翌年に病死するのだが、追悼のための出されたアンソロジーは今年、復刊された。泉芳朗の一世代上のロシア文学者・昇曙夢(彼の『大奄美史』は、奇しくも、昭和24年ーー1949年ーー12月25日発行だ)の著作集は昨年、復刻された。文(かざり)英吉らの著作も、近年、復刻されている。キリスト教思想家・吉満義彦の著作は、80年代の全集以後、出回ってはいないが、それでも全集があるのだ。

別に奄美関係や復帰運動にかかわる著作に特化する必要はない。上に挙げた者たちも必ずしも運動にかかわったわけではない。彼らがそれぞれのフィールドで(西田哲学と対峙した牧野周吉なんてのもいる)展開した知的な活動が、読まれることを望むということだ。

近ごろ話題の徳田虎雄は泉芳朗と吉満義彦を輩出した徳之島の出身だが、1938年生まれ(つまり、戦後第一世代)の彼は徳之島にいては医学部に入れないと言い、高校から大阪に出て、1日16時間勉強の義務を自らに課して阪大医学部に入った。少なくとも本人はそのように自己宣伝していた。


普通に知性を輩出していた地のはずなのに、徳之島でいたのでは医学部に入れない、と戦後世代の徳田虎雄は思った。そういう環境にいた。そのことが、実は、本土から切り離された8年間の顕在化しきれない傷跡なのじゃないかと、ぼくは時々思う。

2013年12月21日土曜日

吸血鬼たちは時間を乗り越え、熱帯を征服できるか? 


なんだこのタイトルは? と思うが、考えてみたら、ジャームッシュの映画はすべて、こうしたカタカナ表記のものばかりなのだった。ひょっとしたら、ジャームッシュこそ(というか、彼を最初に見出したフランス映画社だろうけど)が日本における英語カタカナ語読みタイトルの元祖なのかもしれない。

まあいい。ジャームッシュが紡ぐ吸血鬼物語だ。そりゃあ、関節外しの名人、ジャームッシュのこと、ハリウッドの吸血鬼ものに見られるホモセクシュアルな欲望(と竹村和子が分析していた)など端から笑い飛ばすような設定だ。

今やゴーストタウンと化したデトロイト郊外で暮らすアダム(トム・ヒドルストン)とタンジール在住のイヴ(ティルダ・スウィントン)の吸血鬼夫婦が、妹エヴァ(ミア・ワシコウスカ)の夢に導かれてデトロイトで再会、そこにそのおてんばエヴァが現れ、生活をずたずたするものだから、2人はタンジールに逃げ……というストーリー。

『デッドマン』でウィリアム・ブレイクを19世紀に蘇らせたジャームッシュが、今度はクリストファー・マーロウを21世紀に蘇らせ(イヴの吸血鬼仲間だ。ジョン・ハートが演じる)、マーク・トウェインやシェークスピアすらも実はマーロウだったのか? と思わせるような絢爛なリファレンスで笑わせる(いや、ぼくもわからないものが多かったのだけど……)。かつてシューマンに楽曲を提供したこともある音楽家アダムは今ではアンダーグラウンドのミュージシャンなのだが、自宅に揃える名楽器の数々(ギブソンLG-2の1905年製とか)の蘊蓄に唸る(いや、全部実在のものかどうかは知らないけどさ……)。

前半の見せ場の一つは、アダム、イヴ、マーロウら、吸血鬼が血を飲んだ直後の恍惚の表情。性的恍惚ではない。薬物のもたらすような恍惚だ。なんだか面白い。あるいは飛行機内で近くの客が出血したのを見て欲望を抑えるのに必死なスウィントンの表情も素晴らしい。つまりは演技も見ものだ。

跳ねっ返りの妹、熱帯で見出す新たな感覚、といったトピックに乗るように見せながら、微妙にそこから外れている。そもそも、吸血鬼ものをホモセクシュアルものにせずに、タイムスリップ物語にした、というのがこの映画の大枠のストーリーなのだから。


ところで、あのデトロイト郊外のゴーストタウン化はどれだけ現実に対応しているのだろうか? 相当ひどいとは聞くけれども……


それから、言語面についても一言。吸血鬼たちはイギリス経由の生き物だから(だから、ロンドン経由の飛行機はいやだ、と言ったりするわけだが)、悪態をつくのにbloodyという形容詞をよく使うわけだ。あ、ヒドルストンもスウィントンもイギリス人だし。彼らが、つまり吸血鬼が "This is the bloody 21st century" なんて言う、それだけで笑いたくなるのだが、LA在住というエヴァが会話に加わってくると、例の fuckin'" なんて語が出てくるからもっとおかしくなるのだ。 "What fuckin' are you doing?" などと言い出す。笑っちゃうなあ。アメリカ合衆国の映画が fuckin' だらけなことに逆に気づくことになるのだよ。

2013年12月20日金曜日

そういう中において言葉がないがしろにされる

怒濤の忘年会シーズンの幕開けナイトの昨夜は、教授会の懇親会に出た。思ったより酔って帰った。もう寝ようと思ったのだが、その前に、とTVのニュースを見た。〈報道ステーション〉だ。10時台だったので。安倍晋三が猪瀬直樹の辞任についてコメントしていた。ぼそぼそと不明瞭な言葉で、まず「政治家には説明責任がある」と言った。このシンプルな命題すら言いよどみながらだったのだが、それでもどうにかそう言った。次がいけない。「そういう中において決断されたのだろう」と。

なんだ「そういう中において」とは? 「そういう中で」ですら曖昧な表現なのに、トートロジックに「において」まで。いったいこの語法は何だ? 腹が立ったので、酔いにまかせてツイッターにそう書いてしまった。恥ずかしながら、TVに連動してのツイートなどということをやってしまったのだ、ついにぼくは。決してやるまいと思っていた愚行を犯してしまったのだ。そんな愚行に訴えてでも腹立ちを表現したかった。それほど腹が立ったのだ。

政治家には説明責任があると言ったのなら、なぜ「その責任を果たせないと判断したから辞任したのだろう」と言えないのだ? そうすれば、つまり、この猪瀬某が辞任によって責任逃れをしようとしているとの意見が明瞭になるのだ。

(猪瀬直樹の前任者は、明瞭すぎるあまり言い回しを考えず、問題を起こしたのだった、などと考えていたら、今度はそのTV画面に前任者が出てきた。石原慎太郎のことだが、表情と身のこなしがあまりにも老けていたので、そのこともツイートしちまったぜ)

この人はことごとく言語運用能力の低い人物なのだ、と思ったら、思いだしたことがあった。先週末の話題はASEANの晩餐会でAKB48やEXILEが歌ったり踊ったりした、ということだった。さすがに各所で非難轟々だった。それを思いだしたのだ。

こうしたポップグループにはさして興味もないので、まあよしとしよう。同じくさして興味も抱いていないはずの外交官たちが、固定のテーブルに座らされ(つまり、立食パーティーでもないのに、ということ)、不幸にもステージの間近の席に当たった人は、騒音とステージから立ち昇るホコリとに悩まされたことだろう、との同情の念を感じるのみだ。

問題は、外交官たちの晩餐会は立派な仕事だというシンプルな事実が忘れられているということだ。余興を楽しむリラックスの場ではないのだ。そして外交官たちの仕事とは、言葉でもって交渉するということ。つまりは会話するということだ。その会話を、これらの音楽は封じるものなのだ。

大使館やら外務省やらに領収書の要らない特別の予算が組み込まれているのは、こうした食事やらパーティーやらのリクリエーションに見える場が、実は丁々発止たる外交の場であるからにほかならない。ここで居合わせたメンバーとの会話を巧みに導く者が外交の手綱を握ることになるのだ。晩餐会の会話がすべてを決するとまではいかないが、少なくともこうした場所で存在感を発揮できない者は外交官や政治家としては失格なのだ。技量に欠けるのだ。

それなのに、そんな外交力発揮の場で外交力の要たる言葉を封じるような余興を提供するのは、つまり、言論の封殺以外の何ものでもない。首脳たちはディナーショウに来たのではないのだ。


言葉をまともに操れない首相が主導すると、こうした体のいい言論封殺が発動する。ここのところの特定秘密保護法をめぐる騒動と、AKB48の場違いなステージは連動している。

2013年12月19日木曜日

感想文および箇条書き禁止条令?

ともかく、昨日は昼、古巣の外語大に行ってきたわけだ。久しぶりの100人近い人数相手の授業だった。

リレー講義と称するこうした授業では毎回、学生たちに何かを書かせてそれを集めて、出席もしくは参加点として集計する。たいていは授業の感想など書かせる人が多いようなのだが、ぼくは予定調和を嫌い、授業内で何らかの課題を出して、それについて文章を書いてもらうことの方が多い。

くれぐれも誤解しないでいただきたいのだが、そこで参加した学生たちを批判・非難したいのではなく、そうしたおりに常々観察される傾向などを、……

たとえば昨日は、ある映画の冒頭の10分ばかりを見せて、そのスクリーンに何を見たか書け、という課題を出した。が、そんな場合、まず、圧倒的多数が感想や印象を書かないではいられないようなのだ。見たことを見たままに書くというのがとても難しいことであるらしい。観察の困難。

そして、見せられたものに対しての印象を学生たちが書くとき、やはりかなり多数の者たちが、自分の理解や趣味の範囲を超えるものに対しては、「古い」というレッテルを貼りたがるようだ。古ければどうだというのだ。歴史意識の問題。

そして、やはり少なからざる数の学生が、箇条書きで書いてくる。これもひとつの徴候。

箇条書きって何だ? 

ぼくは思うに、学習の現場での提出書類に箇条書きが許されるどころか、促進すらされるのって、とても異常なことではあるまいか? 異常、というのは、言語活動を教育、開発する場で、そのせっかくの言語運用の訓練の機会にとって矛盾する命令なのではないだろうか、ということだ、箇条書きというのは。

箇条書きって、本当に何なんだ? 


と思ったら、実は1603-04刊行の日葡辞典にも出ているのだそうだ。うーむ。恐ろしい。

ちなみに、タイトルにある「条令」は「箇条書きにされた命令」だそうだ。うーむ。恐ろしい。

2013年12月18日水曜日

朗々たる声の響き

J.M.G.ル・クレジオ講演会「文学創造における記憶と想像力」@東大本郷キャンパス文学部1番大教室に行ってきた。

タイトルは「記憶と想像力」だが、ぼくにとって気になったのは「書き換えと生き直し」とでも理解したい話だった。おばさんのノート、祖父を想像する父のノートらの書き換えとして、そして祖父の生き直しとしての『黄金探索者』、『隔離の島』の創作。

それら2作品から3箇所ほどル・クレジオが朗読し、両作品の翻訳者・中地義和さんが日本語訳を朗読した。ル・クレジオは朗々たる声で読みあげ、聴衆を唸らせた。


今日は3限、前任校でのリレー講義に行ってきたのだが、本郷に戻る途中、お茶の水の丸善でやっと『隔離の島』(中地義和訳、筑摩書房)を手に入れた。

2013年12月14日土曜日

本を読もうよ

なんでも、昨日、また文科省が馬鹿な発言をしたとのニュースが流れたようだ。中学の英語の授業を英語で行う、だと。

やれやれ。こんな馬鹿な話題にはぼくはかかわり合いになりたくはないのだが、一言だけ。

日本人の英語力とやら(そもそもそれは何だ?)を向上させたければやるべきことはまったく逆なのだ。英語以外のすぺての授業を、英語で書かれた教科書を使い、そこでの作業言語を英語と規定してしまえばいいのだ。とてもシンプルなことなのだ(英語は日本語で教えたっていいじゃない? むしろその方が。ただし、このことはまた別の議論だろうけど)。

実際、明治の初期、近代的な教育を整えていく段階で、大学などでもほとんどの教科が英語で教えられ、そのためにむしろ英語で著作をする方が楽に感じていた世代というのがあった。内村鑑三とか新渡戸稲造などだ。彼らが英語で本を書いたことは、何も英雄的なことではなく、むしろ自然なことだったのだ。だって英語でしか知的なことを言えなかったから。

学問が国語化するにつれて、日本人は英語がしゃべれなくなった、教育を受けた日本人は英語がしゃべれなくなった。それだけのことだ。そして日本語でも知的な議論ができるようになった。ただそれだけのことなのだ。

そんなことは太田雄三『英語と日本人』(講談社学術文庫、1995/親本は1981)に明かなんだけどな。だからこの太田の分析の逆を行けば、教育を受けた日本人の英語力を向上させるには何をどうすればいいかなど、明かだと思うんだけどな。


きっとこんな決定を下した連中や、その過程で議論に参加した連中は、太田の本など読んではいないんだろうな。なにしろ日本語で書かれているからな。やれやれ。知性がないがしろにされているんだな。本くらい読めよ、と言いたいな。

2013年12月9日月曜日

行きつ戻りつ思案橋

ミシェル・ウエルベック『地図と領土』野崎歓訳(筑摩書房、2013)

には、こんな一節がある。カフェと有名作家の関係について書いた箇所でのこと。

(同様に、有名なフィリップ・ソレルスは生前、クロズリ・デ・リラに指定席をもっていて、彼がそこに昼食を取りにやってくるかどうかにかかわらず、他のだれにも座ることはできなかったという)(112ページ。( )も本文中のもの。太字は柳原)

最後に割り注が入っている。「ソレルスはフランスの作家、現実には健在」。

『地図と領土』はウエルベックの他の多くの小説がそうであるように、現在のフランス社会を克明に描きながらも、実は視点は未来にある、という小説だ。ジェド・マルタンというアーティストの生涯を、21世紀のグローバル化された社会と、それに呑み込まれたフランス社会を辛辣に批判しながら描いているのだが、ときおり、後世の批評家の言辞を紹介して、これが当のジェドすらもがその生涯を終えた時代からの語りであることを示している。

だから、この「生前」のソレルスの話というのも、つまり、彼も死んだ後の世界からの回顧であろうことはわかる。

が、ウエルベックに慣れていない人や、まだこの時点で小出しにされているだけのそうした視座に気づかない人もいるであろう。生きているのに「生前」とは何ごとだ、と怒り出すソレルスのファンもいるかもしれない。注釈者でもある翻訳者としては悩めるところだ。


野崎さんはひょっとしたら、この文章を前に数時間、腕組みして唸ったのかもしれない。あるいは編集者と議論を重ねたのかもしれない……そんなことが気になっちゃうんだよな。

2013年12月7日土曜日

どれだけ待ち望んでいたんだ?

公開初日、第1回に行ってきた。

パブロ・ベルヘル『ブランカニエベス』(スペイン/フランス、2011)

物語は花形闘牛士の父アントニオ・ビヤルタ(ダニエル・ヒメネス・カチョ)の血を受け継いだカルメン(ソフィア・オリア、後にマカレナ・ガルシア)が闘牛士になる、というもの。それというのも継母エンカルナ(マリベル・ベルドゥ)の指図で殺されかけ、小人たちに助けてもらったから。つまり、ここで白雪姫のお馴染みのストーリーが下敷きとして使われているのだ。

白黒でサイレント映画の形式を取った作品だが、BGMがストーリー内部の効果音、および劇内での音楽とも連動している。ところで、こういうのを何と言うのだろう? 物語の外部と内部を音楽が行き来しているのだ。

蓮實重彦は映画は本質的にサイレント映画だと言ったのだが、改めて2011年のサイレント映画を観てみると、こちらの方がトーキーよりもある意味で雄弁であることがわかる。たとえば冒頭の闘牛シーン。闘牛場へ向かう群衆をロングショットで撮った一コマだけで、映画とはこの群衆の動員においてその本領を発揮した表現手段なのだということを思い出す。そしてこうした群衆シーンにおいて、白黒無音の映像の方がはるかに効率がいい。この時点でこの映画は勝利を収めたようなものだ。勝利を収めるtriunfarとはすなわち、観客の心をつかむということ。カルメンが後にこの同じ闘牛場に帰ってきたことを告げる新聞に書いてあった単語だ。triunfar

場面転換に瞳の映像を効果的に使っているので、登場する人物たちは皆、目が大きい。絵に描いたような敵役継母を演じるベルドゥもオリアとガルシアのふたりのカルメンも、彼女の祖母アンヘラ・モリーナも、皆、大きく目を見開いている。

時代設定は1920年代後半。女性の闘牛士というのは、正式にはたぶん、存在しなかった時代だろうが、それを可能にするのが、小人の闘牛士という見世物。小人プロレスみたいなものだろう。この存在が物語の決着のつけかたに上手い具合に作用しているのだが、それはともかく、別の視点から見れば、女性の社会進出の拡大も社会背景にしているのだろう。女たちが髪を短く切ったのがこの時代。ベルドゥは自身、短髪の看護士。幼女カルメンの髪を切るのは、いじめにも思えるのだが、このソファア・オリアというのが、髪を短く切ってから断然輝きを放ち出す。成長した後のカルメンを演じるガルシアも、短髪ならではの役どころだ。


大きな目と短い髪。それが『ブランカニエベス』の輝き。

2013年12月4日水曜日

母の記憶を語り継ぐ

与えられたガイドブックとラジオ受信機を持って東京芸術劇場地下、2つの小劇場前にあるホワイエに降りて行く。フェスティバル・トーキョーの演目? のひとつ「東京ヘテロトピア」へは、そのように参加するのだ。ガイドブックとラジオを受け取り、指定された場所に行き、指定された周波数に合わせてラジオを聴く。僕が最初に行ったのは、受付からすぐにエスカレーターに乗るだけで行けるその場所。東京芸術劇場のホワイエ。

ガイドブックの図ではそこが築地小劇場の客席に見立てられている。FMラジオの発信装置の図の位置は、奇遇にも僕が好んで座りそうな席だ。ラジオを指定の周波数に合わせてイヤフォンをセットすると、小野正嗣の書いた文章の朗読が聞こえる。築地小劇場にかかわった人々と知り合いであったという「私の母」の記憶を語り継ぐ文章だ。もちろん、その「私」が小野さん本人であるはずはない。年齢が合わない。フィクションなのだ。母の記憶を語り継ぐその語りと、劇場のホワイエであるはずのその場所を客席と見なすという見立てに導かれて、想像力は過去へと飛躍する。

築地小劇場の舞台に立った者もいる。名瀬は今、文芸ルネサンス、文化ルネサンスを迎えているんだ。劇団もあれば、ボーイズみたいな演芸グループも屋仁川界隈を流して廻っている。そう言われたから、内地に……ヤマトに……東京に行ってまた演劇に邁進したいとの思いを断ち切り、伊集田實は名瀬にやって来たのだ。2・2宣言によって北緯30度以南、奄美群島は沖縄ともども日本ではないとされ、南西諸島北部軍政府治下にあり、現実には上京が難しかったという事情もあろうが、ともかく、名瀬でも一旗揚げられるのではないか、と考えたのだ。

伊集田自身は築地小劇場とは関係ない。むしろ前進座で修行を積んだ身だった。が、築地小劇場といえば、小山内薫が発足した日本の新劇の出発点だ。そこの舞台に出た者なら相当の役者に違いない。行って拝顔の栄に浴し、ともに素晴らしい劇を作ろうではないか。名瀬に文化ルネサンスの旋風が吹き荒れているというのなら、流れに棹さすのもいいかもしれない。

実際に行ってみると、築地小劇場上がりとは名ばかり、幼稚園のお遊戯会に毛が生えた程度の劇しかやっていない、というのが伊集田の印象だ。これは一杯食わされたと、その情報をもたらした者を恨みもした。が、そこは絶大な信頼を寄せる郷里・徳之島は伊仙町の先輩。なに、君自身がルネサンスを起こせばいいのだと豪放磊落に笑われ、それもそうだと思い直し、劇団〈熱風座〉を旗揚げして、名瀬の演劇活動の中心人物となっていくのだった。

伊集田實にこのように「一杯食わ」せたのが泉芳朗。当時は大島支庁の視学を務めていた。後に野に下って雑誌『自由』を主宰、論陣を張った。さらには名瀬市長にもなって奄美群島本土復帰運動の中心人物となる詩人だ。彼こそが戦後名瀬の、奄美の文芸ルネサンスそのものだった、そういう人だ。

泉芳朗は一時期東京にいて、高村光太郎らとも交わり、詩人として活動していた。こんな詩も詠んでいる。

朝のぷらっとふおむは/人間の波打際だ
中仙道へ向かって突っ走る此の電車は
大てい貧乏な人々を満載してゐる
ごむ職人 火薬工 道路工夫 水夫——
禁煙も何もかも人の世の掟ぼろ靴で蹴飛ばし
車内は感情の裸だけだ

「中仙道へと向かって突っ走る」のはどの電車だろうか? 板橋に住んでいたというから、あるいはこれは池袋を出発する電車だったかもしれない。この場所は「人間の波打ち際」から少し沖に出た場所なのかもしれない。


僕の母は泉芳朗の名をよくつぶやいていた。彼の復帰を求めてのハンスト、人々は断食祈願と呼んだそのハンストに同調したのだとかしないのだとか、社会党入党は苦肉の決断だ、とか……子供の僕はよくわからないままに彼女の話に出てくる泉芳朗というその名だけを憶えていたのだ。

同じく母がよく語っていたのが、唄者・南政五郎のことだ。いつだったか名瀬まで政五郎の唄を聴きに行ったのだと……

南政五郎は伊集田實の『犬田布騒動記』初演のとき、幕間に出てきて「俊良主節(しゅんじょうしゅぶし)」などを歌っている。母が政五郎の唄を聴いたというのは、このときだろうか? つまり母は幕末、徳之島の犬田布で起きた砂糖一揆についてのこの劇を観たのだろうか? 名瀬文化劇場の片隅で?

伊集田實がその代表作を発表した名瀬文化劇場と、中学生の僕が初めて映画を観に行った映画館・名瀬文化劇場が同じものなのかどうかはわからない。隣に主にポルノ専門の小さな名瀬ロマン劇場を併設した名瀬文化劇場。『ジョーイ』、『スター・ウォーズ』、『マッド・マックス』、……あと、何を観たのだったか? 今はもうパチンコ屋か何かに変わってしまった名瀬文化劇場は、あの名瀬文化劇場なのだろうか? 

小野正嗣のテクストは佐野碩の話へと移っていく。そこでは触れられていないけれども、佐野碩は亡命先のロシアからメキシコへと渡り、コロンビアに行き……

僕はUNAM(メキシコ国立自治大学)の劇場へと移動する……

……という体験だ。「東京ヘテロトピア」とは。

ちなみに会場のひとつは本郷郵便局のすぐ裏で、つまりは仕事先からすぐの場所なので、昨日の空き時間に行ってきた。テクストは温又柔。それがまたいろいろと思わせる場所とテクストで……


12月8日までやっている。いつでも参加できる。

2013年12月2日月曜日

見つけたいものは見つからない

見つけたいものは見つからない。思いもよらぬものばかりが見つかる。今日、明日の授業のためにといろいろと探し回っていたら、肝心のものは見つからなかったけれども、見つかったのは、これだ。

『エビータ』スペイン語版レコード歌詞カードのコピー。

ぼくの出た東京外国語大学では毎年、学園祭の時期に学生たちが自分たちの学ぶ言語で劇をやる。通称、語劇と呼ぶ。ぼくたちにとってはスペイン語劇。主に2年生が中心になるのだが、別に決まりがあるわけではないので、何年生が参加してもいい。

ぼくは学生時代、1年のときに舞台監督として、2年生では演出として、3年生では照明係として、それぞれ参加した。4年のときにも、なんとなくその辺にいた。

さて、1年時、ぼくらはアンドリュー・ロイド・ウェバーの『エビータ』スペイン語版をやった。ぼくは舞台監督だった。その名は思い出したくない演出の先輩が、前年、南米を旅行中に、このスペイン語版翻訳者と知り合い、許可を得てきて、ぜひやりたい、と言ってやったのだ。ぼくはその演出の先輩の下で、舞台監督を務めた次第。

で、時間が限られているので、オリジナルから何カ所かカットしたりしたし、全編楽曲からできている文字どおりのミュージカルのこの作品の一部を、セリフに変えたりして時間短縮して上演してきたのだが、今回出てきたのは、その上演用の台本になる前の、オリジナルの全曲のスペイン語歌詞カードだ。


自分自身が演出した(ガルシア=ロルカの『血の婚礼』)ときの記録や資料などはもうぜんぜん残っていないのに、まさかこれが出てくるなんて! 驚き、かつ、かなりの部分を覚えていたので、朝から歌って『エビータ』独演会などを開いてしまった。もちろん、観客はゼロ。

2013年11月30日土曜日

もみじをかる

昨日、食後の散歩に近所の旧古河邸に行った。学生時代にも何度か来たことのある庭園だ。バラ園と日本庭園の融合が美しい。そして邸宅が素晴らしい。

で、そのアルバムをフェイスブックに載せて、友人たちからのコメントに答えるうちに、同じくJR駒込駅から近い六義園もお勧めだ、と書いた。

そんな経緯があったので、今日の食後の散歩は六義園に行こうと思った。

が、ふだん閉鎖されている駅側の門の前に長蛇の列ができていた。

萎えた。

諦めた。


さすがに休日は、皆、美しい景色を求めているのだなあ。

2013年11月22日金曜日

落涙す

4月には高校時代の仲間が亡くなったと思ったら、今度は幼なじみが死んだ。小学校入学以前からの、文字どおりの幼なじみだ。癌が見つかったときには、もう5箇所くらいに転移していたそうだ。入院したと思ったらあっという間だった。

小学校で同じクラスだった、と言っても、おそらく、多くの人が抱くような小学校のクラスメイトの概念を超えているはずだ。ぼくらの同期は、それでも前後の学年より多かったほうだが、合計12名しかいなかったのだ(転入し転出したのがひとりいたので、最大13名)。良くも悪くも濃度が違うのだ。

中学を出てからは、別々の高校に進学したし、そんなに頻繁に会ったわけではない。帰省のたびに会った程度(算えるくらい)だ。役場に勤めていたけれども、出張で上京したときに2、3度は会った。その程度だ。が、ぼくは彼に対してはある種特別な思い入れを抱いていた。

彼の母方の苗字は、誰がどう見ても明らかな鹿児島の士族のそれ。ぼくの祖母は、時々、三百数十年の時を飛び越し、その彼の母方の者たちが私たちを征服に来たのだと語っていたらしい。1609年の琉球征伐のことだ。彼の母方のおばには白内障のだいぶ進行した人がいたけれども、それが我々の恨みのこもった返り血を浴びた結果、一族が背負うことになった運命なのだと……

子供時代のぼくは、祖母のそんな話をほとんどまともに受け取ってはいなかったのだけど、祖母も死んでだいぶたったある日、母から思い出話にそのことを知らされ、その時以来、どうにかこの話を文章化したいなと、漠然と考えていた時期があった。

友人とはそんな話をしたことはない。そんな話をする相手ではなかった。ただ酒を呑み、馬鹿を言い、共通の友人の消息を伝え合うだけだった。ぼくの思い入れというのは、一種傍系の想念に過ぎない。でも何だか、祖母が死に、祖母が呪詛した家系の末裔でぼくに一番近かった彼が死んでしまうと、1609年の出来事までが薄れてしまうような気がする。そこから生まれた征服された者たちの恨み節が消えてしまうような気がする。それを何らかの形にしようとしていたぼくの情熱が消えてしまうような気がする。なんだかさびしいのだ。


今日も明日も授業はないから、無理すれば通夜か告別式には出られるのかもしれない。でも、こまごまとした用が入っていて、それをずらすのも後に響いて剣呑だ。弔電だけで済ませることにした。宛名にもう80歳を超えているはずのお父さんの名を入れたとき、涙が出そうになった。

2013年11月17日日曜日

日曜日は休日との通念を棄てて久しいけれども……

〆切りを過ぎた原稿4本(いずれも長め)に〆切り間近な原稿2本(比較的短い)、〆切り関係ないけど、常に念頭にある原稿や翻訳3、4本を抱えているので、日曜だというのに、今日も今日とて仕事場通い。

そのうち1本がもう少しで終わりそうなのだが、肝心のつなぎ目がうまく行かず、こんなときには散歩に限ると、昼食後の腹ごなし(本当に、腹回りは危機的状況だ)も兼ねて大学まで歩いてきたのだった。それに、なんとなく、休日気分も出るかな、と思って。

文京区は寺が多いのだ。神社もあるが、ともかく、寺が多い。

この数は驚異だ。ここならいつ野垂れ死にしても安心だ。

なかでも一番大きいのは吉祥寺かな?

この門の屋根瓦はすごい。

それとも、浄心寺の方が大きいかなあ? 区の葬儀施設もあるみたいだし。

なんたって、こんなものまである。

それから、ビルに埋もれた(?)寺。寺の門なのか? うーん。


素敵なお店もいくつかあって、寄り道の種には事欠かなそうだ。文京区、あなどりがたい。

2013年11月15日金曜日

1976年、ぼくは中学1年生だった。まだ映画館に入ったことはなかった。

『あまちゃん』は80年代アイドル文化へのノスタルジーを掻き立てて話題になった(らしい)が、坂手洋二が『ここには映画館があった』(燐光群@座・高円寺)で回顧してみせたのはその少し前、1976年だった。『あまちゃん』は小泉今日子と薬師丸ひろ子を対決させてあの時代にノスタルジーを感じる人々の心をくすぐった(らしい)けれども、坂手洋二はジュリアーノ・ジェンマを、つい最近死んだあのマカロニ・ウェスタンのアイドルを、「まだ生きている人」として呼び出して、坂手より一つ年下で、坂手よりもっと田舎に住んでいたぼくの心をくすぐった。

1976年は映画の当たり年だった。岡山の田舎にあっても、街の映画館でその年を享受した彼は、『ロードショー』や『キネマ旬報』に映画評を投稿して掲載されていたらしい。そんな自伝的要素を、マチコ(重田千穂子)、アズサ(岡本舞)、サヨコ(円城寺あや)の客演3人組に投影し、『ハリーとトント』、『JAWS』、『追憶』、『カッコーの巣の上で』、『タクシー・ドライバー』等々、おびただしい数の76年(およびその前後)封切りの映画に言及しながら、理想の映画館をつくる話と、生と死の境というテーマと、沖縄の問題とを絡めた物語を紡いだ。76年を奄美の片田舎にあって、今だ映画館で映画を見ることがなかったけれども、耳学問で暗闇とスクリーンに憧れて過ごしたぼくは、何度も泣きそうになった。

ビブリオフィルが理想の図書館を夢想するように、シネフィルが理想の映画館を夢見るのは当然のこと。当然のこととは思うけれども、実際にはただの映画好きでは理想の映画館を夢見るにはいたらない。中学生のサヨコが中学生の坂手と同様、映画雑誌の懸賞映画評で入選し、その文章が掲載され、映画を見ることが映画を語ることであり、それ自体がひとつの創造なのだと気づくことがなければ、そんな夢を抱くにはいたらないのだ。そして気づいてしまったのだ、円城寺あや演じる中学生のサヨコは。そして自分の文章が読者を呼び、人間関係の環を広げ、遠い沖縄の問題に、沖縄の向こうにあるアメリカの問題に接続されことを知る。こんな中学生の話を前に、泣きそうになるのは当然だろう? 


ゾンビ映画の嚆矢にして日本では実際には公開されなかった『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』をヴェトナム後のアメリカ合衆国の失望の隠喩に転換し、『七人の侍』と自衛隊の成立が同年であることを指摘して論じるなど、言及される映画のそれぞれに対する批評も、唸らせる。

2013年11月14日木曜日

端倪すべからざる奥行き

ぼくのこのたびの引っ越しのコンセプトは、学生みたいな生活がしたい、だ。大学からそう遠くない場所のつましいアパートに住み、ほぼ毎日大学に通う。もちろん、学生の時の条件そのまま繰り返すわけではない(そんなことはできない)、いまではその大学は仕事場であるのだし、充分な広さの研究室があるのだし。ま、ともかく、気分は学生、ということ。

昨日は初めて学食に行った。まあ何というか、学生気分。行ったのは第一食堂というやつ。安田講堂の前庭の地下にある。修学旅行の中学生だか高校生だかと老人の集団がいた。そして今日は銀杏メトロ食堂というのに行った。法文2号館という建物の地下にあるやつだ。

何と! 畳の座敷があった。8-10人くらい座れる座卓が5、6。ここは8時までやっているし夕方にはアルコールも出すから宴会(一次会に限るが)でもできそうな勢いだ。

ぼくも色々な大学に教えに出向いたり、学会で行ったりして少なからぬ数の大学学食を見てきたが、座敷というのは他に記憶にないなあ……


あ、ちなみに、1日の記事に書いた「何とかという洋食野」は松本楼。日比谷公園にあるやつだ。

2013年11月10日日曜日

がんばります

家でTVをモニターにするというのは、つまりこういうことだ。

マックを乗せているのは片側だけで支える形式のラックなので、やはり今ひとつ安定感を欠く。せめてこんな(それこそ、文字どおり演台だ!)のにした方がよかったかもしれない。きちんとしたスタンダップ・デスクを置いた方がいいのかもしれない。座り仕事(本を読むとか、そういうの)用には肘掛け椅子でいいのだ。書斎の配置を根本から変えた方がいいのかもしれない。

さて、ところで、立った方が仕事がはかどるのではとの思いからこんなことをしているのだが、実際に配置の変化などにかかずらっているようでは本末転倒だ。仕事をはかどらせるために仕事をしない。うむ、パラドクサルだ。なんというか、自己啓発本などの並びにある仕事術指南書のたぐいのようだ。いかに仕事を効率化するか、そんなことに悩んでいる間に仕事の時間が過ぎて行く……という感じ。

いやいや、それどころではないのだ。たまった仕事がうんとあるのだ。


ところで、昨日は(いつものことだが)通算で10時間ばかりも仕事をしたのだが、そのうち8割くらいは立っていたと思う。あるていどの運動をこなした後のように疲れた。おかげでぐっすり眠れた。立って仕事をするということは、能率を上げるだけでなく、そんな効果があるのかもしれない。それとも、大塚でうっかり運動部新入生みたいな昼食を食べてしまったために、腹ごなししようと池袋まで歩いて行って(昔よく歩いた、勝手知ったるルートだ)、そこから大学に向かった、その散歩が効いているだけなのだろうか?

2013年11月9日土曜日

ゲーテのように、サイードのように

立ったまま仕事がしたいと思った。ゲーテのように、ヘミングウェイのように、サイードのように。

サイードの『人文学と批評の使命』には机の上にさらに小デスクをおいて立ったまま仕事をするサイードの写真が口絵として載っていた。いいな、と思ったのである。

まず、家の机に、台所の細々とした物入れに使っていた箱を置いてみた。その上に大判の本をいくつか置き、ちょうどいい高さにして、立ったまま書くことをしてみた。

なかなかいい。

で、研究室では、ゴミ箱を机の上に置き、コルクボードを渡してみた。

うむ。

! 

が、もっといいのがあるじゃないか。

前任者・野谷文昭さんが残していったラック。辞書などを載せて机の脇に置いてあったのだか、それの天板がスタンダップ・デスクにぴったりの高さ。こうして使ってみた。


なかなかいいのである。

2013年11月4日月曜日

ピチピチ チャプチャプ ランランラン♪

ジャン!

レインブーツである。

てやんでぇ、雨靴だろ? 早い話がゴム長じゃあねえか。

うむ。ちげぇねぇや……

が、最近は単なるブカブカの黒ゴム長でなく、このように意匠を凝らして、それをレインブーツと呼んでいるらしいのだ。

ちょっと前に大雨が降ったときにほとほと困った。履いていく靴がない。どれも履いたら水が浸透して靴下がぐしょ濡れだ。雨靴が欲しいと思ったのだ。

数年前から女性もののレインブーツがずいぶんと豊かになってきたことに嫉妬を覚えていたのだった。男性ものでも何かいいものはないかと思っていたのだった。思い立って検索してみたら、何のことはない、いろいろとあるのだった。ま、そりゃそうだよな。

で、ウィングチップ好きのぼくとしては、これなどが良かろうと思って買った次第。

ところが、買ったと思ったらなかなか雨が降らない。あるいは降りそうで降らない。で、今日は大した雨でもないが、たまらず試しに履いてみた。「あめあめふれふれかあさんが♪」などと(あくまでも心の中でだけ、だと思う)歌いながら、僅かばかりできた水たまりにわざと足を踏み入れたりしている。


まるでガキんちょだ……

2013年11月2日土曜日

常に衝動的

換えてきたのだ。iPhoneをガラケーに。

しばらく前から電源ボタンの接続が悪くなっていたが、ここ1ヶ月、まったく機能しなくなった。映画館でも電源が切れなくなった。後で知ったことだが、それらのボタン機能を画面上に表示することができる。が、それでは電源を切ることはできても、入れることはできないらしい。ともかく、そんなわけで、煩わしいと思うようになった。

Appleショップに相談に行ったら、保証期間を過ぎているので、取り替えるのに結構な額の料金が発生するとか。それで、それならいっそ、機種交換してしまえと思った次第。

今のiPhone5にした直後、iPad miniを購入。それがだいぶ調子がいいので、ネット接続など、ぜんぶそれでいいじゃないかと思うようになった。モバイルルーターも持っているので、それとiPad miniとの組み合わせでいいじゃないか、と。次に機種変更するときにはもうiPhoneでなくてもいい、と。

そんなわけで、言うところのガラケーに戻ったという次第。

戻ったはいいが、この種のものは使うのが久しぶりなので、勘を取り戻すのに時間が必要だ。……加えて、アドレス帳とか、一からやり直しなのよね。やれやれ。。


そんなわけで、もうほとんど使わないと思うが、gmailに換えて、ezweb.ne.jp も使えるようになった。親指によるメールなど苦手なので、あまり使いたくはないし、返事も遅れがちになろうが、こちらにいただいてもかまわない。

2013年11月1日金曜日

隣の芝生が青く見えることについて

昨日のこと。慶應義塾大学日吉キャンパスに出向いてきた。論文審査に行ったのだ。

学部によって異なるようだが、少なくとも慶應のある学部の教員は昇格する(専任講師から准教授、准教授から教授に)にはそのための論文を提出し、審査員によって公開で審査を受けなければならない。すごいのだ。今回ぼくは、ある人の論文の審査委員のひとりとして出向いたという次第。

審査は滞りなく済み、対象となったその方を昇格させるにやぶさかでない、との結論が出たので、少しばかり祝い酒を飲んだ次第。キャンパス内のHUBで。

キャンパス内? 

法政の多摩キャンパスや外語の府中キャンパスなど、ぼくがこれまで勤めてきた場所には考えられないことだが、慶應の日吉キャンパスには、キャンパス内にローソンだのHUBだのがある。キャンパス内と言っても、いちばん駅に近い場所であり、つまり近隣住民にとってもアクセスが容易な場所だが、ともかく、駅に東急が入っているほどの大きな駅、つまり周囲にも多数の住民のいる場所にあるこのキャンパスは、もっと郊外にあるぼくの知ってきた大学とは異なるのだ。さすがなのだ。

と、話していたら、ふと気づいたのだった。今ではぼくの勤める大学は、やはり大学内にローソンだのドトールだのスターバックスだのサブウエイだの、それからなんと言ったか、洋食屋の店舗を抱えるところなのだった。


うむ。大いに利用しない手はない。

2013年10月26日土曜日

文学が人を破滅に導くことを教えてくれるのは、いつも文学以外だ

フランソワ・オゾン『危険なプロット』(フランス、2012)@ヒューマントラストシネマ有楽町。

かつて小説を出版したこともあるが、自分の才能に見切りをつけたフランス語教師ジェルマン(フランソワ・ルキーニ)が、あまりできの良くない高校生たちの中に優れた才能の持ち主クロード・ガルシア(エルンスト・ウンハウワー)を見出す。クロードは友だちの家に勉強を教えにいったついでに見た典型的中産階級の生活とその家の主婦エステル(エマニュエル・セニェ)を描写し、優れていた。しかも、その作文の宿題は「続く」à suivre という表現で終わっている。読んで聞かせた妻ジャンヌ(クリスティン・スコット・トーマス)ともども、ジェルマンはすっかりクロードの文章にのめり込んでしまう。クロードは次々にその続きの文章を提出してくる。彼はやがてエステルを誘惑しようとする。

ジェルマンはクロードに書くことを教えている。クロードは友人の家に潜入して、見たままやったままを現在形で書いていると主張している。ジェルマンが知っているのは文章の中の出来事。それはクロードによれば現実の出来事。視点はあくまでもジェルマンの側にあるので、クロードが本当にエステルを誘惑しているのかどうかはわからない。読ませる文章にするためのコツを教えると、クロードは書き直して第2、第3のヴァージョンを作ってくるから、ひょっとしたらフィクションなのかもしれない……

フィクションと現実とが作者と読者、生徒と教師でもある作者と読者の会話の中で渾然一体となる。クロードがエステルを狙っていることが発覚したとき、ジェルマンとジャンヌの夫婦が観に行った映画はウディ・アレンの『マッチ・ポイント』だったが、クロードの文章内での友人宅の出来事にジャンヌが介入していくところなどはウディ・アレン(たとえば『ローマでアモーレ』のアレック・ボールドウィン)を思わせる。戯曲をもとにした状況劇で、サスペンスフルな展開の背後から聞こえてくるBGMはセニェの夫ロマン・ポランスキーの映画を思い出させる(が、それが何だったか思い出せない。特定できない)。


そう。原作は戯曲なのだ。スペインのフワン・マヨルガJuan Mayorga。恥ずかしながら知らなかったのだが、この劇作家の『最後列の男子』El chico de la última fila という戯曲とのこと。ジェルマンもまた最後列に座りたがる人間だったが、そんな似た者同士の疑似父子関係などというテーマもほのめかされている。

2013年10月11日金曜日

上野と本郷は近いんだ。だからこそ先生とKは不忍池のほとりで語らったんだ。

昨日は初の教授会だった。80分ほどで終わるという、前の大学からみれば軌跡と呼ぶしかない事態だった。

大学専任教員歴も18年目を数える。今さら抱負など、口はばったくて申し上げられない。粛々と業務に専念するのみ、と挨拶した。(大意)

東大本郷キャンパスのすぐれたところは、上野が近いことだ。そんなわけで今日は西洋美術館の「内と外:アンフォルメル展」と「ル・コルビュジエと20世紀美術」に行ってきた。常設展示場で、常設展の値段でやっている。

「アンフォルメル」はアントニオ・サウラとアントニ・タピエス、エステバン・ビセンテとホセ・ゲレーロ、ふたつの対を比較するという意図。サウラの存在感が圧倒的で良かった。ル・コルビュジエは彼が画家としても盛んであったことを教えてくれる。


特別展は「ミケランジェロ展」だったのだが、ぼくはまだ職員証をいただいておらず、ということはキャンパスメイト割引が受けられないので、今回は、パス。が、考えてみたら、特別展を買えば常設展も見られるのだから、職員証をいただいてから全部を見に来れば一番お得ではあった。

2013年10月3日木曜日

初仕事

内定者オリエンテーションというのがあった。何の内定かというと、進学内定だ。

普通、大学2年から3年に進むことは進級という。東大の場合、進学というらしい。つまり、一高から帝大本科への進学、なのだ。うーむ。

一度でも東大受験を考えたことのある者や実際にそこに進学したものはご存じのように、東大は入学生全員が駒場にある教養学部に入学する。そして、3年の進学時に、文学部とか工学部とかに進学する。教養学部にも専門課程があるから、そのまま駒場の教養学部後期に進学する者もいる。人気のあるところなどは成績によって振り分けたりする。進学振り分け、いわゆる「進振り」だ。

で、ともかく、今日は来年4月から現代文芸論に進学することの決まった2年生たちのオリエンテーションがあったという次第。

オリエンテーションったって、ぼく自身、まだ辞表をもらって一仕事もしていない。2年生たちをオリエントすることなんてできたもんじゃない。ただちょこんと座っていただけだった。

正確には「一仕事もしていない」のではない。その直前に、ある秘密の仕事があった。これもなかなか面白い儀式だった。以前から顔見知りのフランス文学のNさんなど、「よくわからないでしょ? ぼくだっていまだによくわからない」とおっしゃっていた。そういえば、彼は駒場に勤めていたのが、あるとき本郷に移ったのだったが、それはいつだただろう? 


今日から体制が整って、研究室でコーヒーが飲めるようになった。コーヒーが飲めるようになりさえすれば研究はばっちりだ。自宅ではまだ料理を作ることができていない。こちらはまだしばらくかかりそう。

2013年10月2日水曜日

辞令の文面?

なんだか辞令に付随する文書がたくさんあった。どれを書いていいのかわからない。

新しいところは東大だ。 東京大学大学院人文社会系研究科・文学部。現代文芸論専攻。

つまり、今年の3月に定年退職された野谷文昭さんの後任だ。彼の退職後すぐにぼくが着任する予定だったのだが、昨日書いたような理由から半年延びたという次第。

このことを昨日のうちに記すつもりだったのだが、いつの間にか忘れていた。辞令交付の後、色々な書類に記入したり、研究室を整理したりしているうちに忘れてしまったのだ。

せっかくだからもうひと言:降格人事ではある。外語では教授だったが、東大では准教授としてのスタートだ。大学というのは、全入時代の今でも、その教員のあり方はだいぶ誤解されているような節があるので、困るのだけど、教授だ准教授だのの肩書きというか身分というか、そうしたものは文化系の学部の場合、大した問題ではない。ある種の仕事ができるかできないか(しなければならないか、しなくてもいいか)という程度、それもできればあまりやりたくない仕事に関しての権利の問題なので、できればずっと准教授でいたっていいくらいだ。

そんなわけで、降格であった(主に東大のがわの都合だ)ことに関して、取り立てていいことも悪いこともない。


昨年から非常勤で授業を持っていたので、少しずつ東大のあり方についてはそれなりの理解を得てきた。研究室中心の体制であることや、詳しくは言わないが、『三四郎』の世界がいまだ残っていることなど、なかなか楽しそう。担当授業数も今までよりは少なくなるし、さて、真面目に仕事するか。外語の辞令をいただいた後には、学長から、あの仕事、どうなってる、なんて訊ねられたし……はい、真面目にやります。

2013年9月30日月曜日

辞令の文面

朝からネクタイなど締めて大学に行ったのは、学長から辞令をいただくためだ。「辞職を承認する」

うーむ、まるでぼくが辞表を書き、それが認められた、という体裁だ。

まあ、確かに、辞表は書いたのだが……

3月には始まっていた話なのだ。断っておくが、去年の3月だ。今年の4月からぼくがスムーズに移れるようにと、比較的早くに始まったプロジェクト。7月末には先方の教授会で決定がくだされたから、だいぶ早い方だ。

そんなふうに早く進んできた話なのに、ぼくは4月から移ることはできなかった。外語が2学部化したばかりだったからだ。こういう組織の改編をやると、文科省に認可を得なければならない。そのためには何の科目を教えるどの肩書き(教授か准教授か講師か……)の人が何人いる、というような教員の一覧表を提出しなければならない。4年間はこの表に空きができてはならない。

ついては君、半年待ってはくれまいか。10月着任で後任が取れるようにするから……

というわけで半年異動が延びたという次第だ。(後任は結局、来年の4月から来るのだが)

そしてぼくは1年半、沈黙した。

今度行く大学は……それはまた、明日。

ともかく、そのために引っ越した。研究室だけでなく、自宅も引っ越した。地下鉄で通うことになるからSuicaもPasmoに替えた。定期券をPasmoつきでないものにして、いつもはSuicaを使うという手だってあったのだが、そのことに気づいたのはPasmo定期券を買った後だったのだ。


そんなわけで、何もかもすっかり入れ替わってしまった。ぼくは生まれ変わろうとしているのだ。

2013年9月28日土曜日

捧げてばかり

教え子の結婚式に出た。21日(土)のことだ。スピーチしろというから軽い気持で引き受けたら、主賓の挨拶だった。仕方がないからルベン・ダリーオの詩「花嫁に捧ぐ」を朗唱した。

Alma blanca, más blanca que el lirio; (白き魂、百合よりも白く)
frente blanca, más blanca que el cirio (白き額、主の祭壇を照らす)
que ilumina el altar del Señor:    (ロウソクよりも白く)
….

と。皆さまO(花嫁の名だ)とは実にこういう人物なのであります。等々。等々。

「ロベルト・ボラーニョ捧ぐ」という催しがセルバンテス文化センターであった。26日(木)のことだ。スペインの国営テレビrtveが製作したボラーニョついてのドキュメンタリーの字幕つき上映会と、それについてのトークショウ。行ってきた。行ったついでにトークショウにも参加してきた。野谷文昭さん、小野正嗣さんと語ってきたということ。

皆さま、ロベルト・ボラーニョとは、若き頃、アンファン・テリブルにして、晩年は周囲に愛され、愛した人間であったわけです。等々。等々。

そんなこんなの合間に引っ越しした。引っ越すたびに部屋は狭くなるが、都心には近くなる。だからといってどうということもないのだが。

今回住むことになったのは、かつて東京外国語大学のキャンパスがあった北区西ヶ原4丁目からほど遠からぬ場所。大学の近く(滝野川一丁目の電停付近)に住んでいたぼくが自分の庭の端っこあたりと認識していた場所だ。

やれやれ。

少しずつほのめかしてきたのだが、ぼくは外語を辞めようとしているのだ。それで過去の外語の記憶の中に生きるはめになった、と。パラドクサルだなあ。

で、学生時代は見向きもしなかったのだか、この界隈だと実は赤羽が要所なのだと改めて気づいた。そのことをセルバンテス文化センターでのレセプションでさる編集者にお話したら、ちょうど都市論の本を準備している最中らしく、赤羽がいかに重要かを教えていただいたのだった。


あ、いや、ぼくは赤羽に住むわけではない。くれぐれも誤解なきよう。

2013年9月23日月曜日

間違い探し

研究室がこんなふうになった。

さて、以前との差は奈辺にあり哉?

自宅も引っ越すのだ。荷造りが終わらないのだ。


引っ越したと思ったら、このイベントに出るのだ。「ロベルト・ボラーニョに捧ぐ」。基本的にはrtveが作成したボラーニョについてのドキュメンタリーを日本語字幕付きで上映、「ボラーニョ・コレクション」についてのトークを展開するというもの。ぼくはコレクションでは『第三帝国』を訳すことになっている。ということは、『第三帝国』について話せばいいのだろうか?

2013年9月16日月曜日

四の五の言わずに……

『2666』が出てしばらく経ったころ、反応を見ようと、何度かツイッターやウェブページで検索をかけたことがある。反応はきれいに二様であった。

1)これから読む/読みかけである/読み終えたことを報告する嬉しそうな記事。
2)長くて/高くて手が出ない/読めそうにない/読み終えられるとは思わない、と嘆くもの。

2)の中には相当数、読みたいのだけど長すぎる、高すぎる、というのがあった。高すぎるとという意見にもいくらでも反論はできるが、まあそれは別の話。ぼくが不思議でならないのは、読みたいけど長すぎる、という反応だった。

なぜ読み始める前に長いと思う? 読みたければ最初のページを読んでみればいいのだ? で、おそらく、読んでいる人というのは、長いと嘆いたり驚嘆したりする前に、もう読み始めている人たちなのだ。その人たちを見習って、最初のページだけでもいいから読んでみればいい。長さに見合うだけの喜びの得られない本だと判断すれば、そこで捨て置き、以後、語らなければいいのだ。長いけれども面白いと思ったら、何年かけてでも読む決意をすればいいのだ。決意などしなくとも、本当に面白ければ、何年かけてでも読むだろう。読みたいけど長すぎる、読めない、というのは、なんというか、実に悲しい未練だ。四の五の言わずに読みやがれって話だ。

と、ここまで書いて思ったのだが、うん? 待てよ……ふと我が身を振り返った。ちょっと立場を変えてみよう。ぼくはそういえば、書きたい、書きたいのだが書くのは難しいのだ、と昨日も書いたような気がする。

……ふむ。書きたい、でも書けない、と言っている輩は、確かにいつまで経っても書かない者なのかもしれない。未練たらしい単なる言い訳なのかもしれない。書いている者は、どう書こう、なんて考える前にもう書きだしている者なのだ。きっと……


さ、仕事仕事……


今年の3月に参加した会議に提出したペーパー、読んだよ、次、うちに投稿しない? という誘いのメールが、ある雑誌から来ていた。原稿依頼ではなく、勧誘なのだが、どうしよう、せっかくだから書く? でもおれ、そういえば、英語で論文書いたことないし、書けるかな? ……などと朝から考えていた。だから、書く人はそんなこと考えずに、もう書きだしているはずだ。四の五の言わずに、ということだ。

2013年9月15日日曜日

スクロールはめくりに対抗できるか?

そんなわけで(そんな、というのは、ふたつ前の書き込み、論文の書き方などの話題)、大学生のための論文の書き方、といった類の書などは大同小異、同じことが書かれているし、逆の見方をすれば、その同じことを際立たせるためのさまざまな工夫がなされている。が、ひとつある要素に欠けているように思うのだ。

石ノ森章太郎は幼いぼくに多大なる影響を与えた人物のひとりで、彼の『マンガ家入門』などはこどものころ読んでいたのだった。現在は『石ノ森章太郎のマンガ家入門』(秋田文庫、1998)として文庫化されている。これの自作「龍神沼」の解説などはすばらしい。マンガを、いや、マンガといわず、フィクションを読み解くための手ほどきがしてある。

さて、この「龍神沼」解説の直前、ストーリー漫画のための準備として、いくつかの用語解説をした後に、石ノ森は「では、ノートを一冊、用意してください」(96ページ)と読者に呼びかける。そこにテーマ、シノプシス、プロット、ストーリー、メモ、キャラクターのデッサンなどを書きこんでいくことを指示している。それからコンテを描いて、ネームを入れて、と……「めんどうなようですが、ストーリーマンガの場合は、この段どりが、もっとも重要なのです」(97)と。そして絵にふきだしが入るマンガの形式でももう一度、ノートの取り方を説明している。特に思いついたことを片っ端から書いていくメモは大切だ、と。「すぐには/役にたたなくとも/長い話の場合/そのうち いつか/役にたってくる/のだ」(96)。

「論文の書き方」は論文を目指すのであって、マンガを目指すのではない。それでも、これと『マンガ家入門』との差異は何かを教えてくれているようだ。

たいていの論文指南書などではカードの形式でメモをとることは推奨されている。引用する文献の引用箇所をメモしたり、書誌情報を書いたり、思いつきをメモしたり。それらを並べ替えれば論文の一丁上がり、と。あるいは少し気のきいたものならば、アウトラインを作ることを勧めたり、メモと論文完成の間にパラグラフ・ライティングを鍛えることを勧めたり、……。が、『マンガ家入門』における「ストーリー」や「シノプシス」「プロット」に相当する部分(さすがに「キャラクター」は要らないと思う)はないがしろにされているような気がする。すくなくともそれがメモなどと同じノートに記されるべきだという指導はない。

マンガにおける「ストーリー」に相当する部分を敢えて探し出すならば、論文においてはアウトラインということになるかもしれない。アウトラインであるならば、今ではワープロソフトのアウトライン機能を活用せよ、などという示唆はなされる。一方でカード(もちろん、今ではそれが電子化されていてもかまわない)を取り、他方で別の場所でアウトラインを書く。それが同じ一冊のノートの中であるべきか否か? それが疑問として浮上してくるのだ。

少なくともぼくは同じ場所に収めたいと思う。であるならば、それは紙のノートであるべきか、最初から電子化されるべきか? 

ぼく自身、いろいろと試行錯誤を重ねていることも間違いない。最近では、ある文章を書こうとなると、そのためのフォルダをつくり、メモやら文章やら章立て案やらを書いてはそのフォルダの中に収めておく。フォルダの名は〆切日とタイトル(仮)にしておく。が、そもそもタイトルの発想などは手書きのメモの方が出てきやすいように思っていることも間違いない。手書きの方が立ち上がりも早い。論文向けの特別なノートというのを作らず、ふだんのノートに手書きのメモは書き、アイディアが立ち上がったらフォルダを作る、というやり方を採ったりもする。試行錯誤だ。


ひとつだけ確実なことがある。現在、ぼくが書きあぐねている文章のほとんどでは、きちんのそれ専用のノートを作っていないということだ。やれやれ。最初からやり直しだ。

2013年9月14日土曜日

古いやつだとお思いでしょうが……

引っ越しをするので、郵便局に転送願いの葉書を送ろうと思って、書いた。切り取って出そうとしたら、切り捨てる側の紙に、「サイトでも手続きできます」と書いてあった。

うん。そうだね。だいたい今なら何でもウェブ上で手続きできちゃうよね。そうなんだ。そのことをわかっているはずなんだ、でもなんだか、郵便局の場合、郵便で知らせなきゃいけないんじゃないかな、という気になっていたんだ。きっと……

最近、7notesというAppアプリがお気に入りだ。iPadミニにインストールしたこのアプリをメモに使うのだ。手書きで書いた文字を認識し、活字にする、その認識能力が優れている。もちろん、手書きをそのままPDF化することも可。

で、文字認識能力にすぐれたメモアプリだから使い始めたはずなのに、最近はついつい手書きで読書メモに使っている。なんだか手書きの方が読書メモっぽいなと思ってしまうのだ。


うーん。古いやつなのだ、ぼくは。

2013年9月13日金曜日

婉曲語法の誕生

昨日報告した苅谷(2012)は、ついでに買った1冊なのだった。本当は、

苅谷剛彦『知的複眼思考法:誰でも持っている創造力のスイッチ』(講談社+α文庫、2002)

を求めて行ったのだ、本屋には。

ぼくの勤める東京外国語大学では今年から「基礎演習」という授業が始まった。1年生の秋学期に全員必修の授業だ。大学での勉強の仕方、論文の書き方などを訓練する授業だ。ぼくは担当していないけれども、この授業の準備をするWGのメンバーだ。その集まりが昨日あって、そこでの資料にこの書名を見いだし、これだけは読んだことがなかったので、買い求めに行ったのだ。

まさに外語に勤め始めたころ、2004年当時のノートを見返す機会があった。ぼくはその年と翌年、集中して大学論や大学の授業の進め方、論文の書き方、などに関係する本を読んでいたようだ。学生たちのレポートのできがあまりにもひどくて、「論文・レポートの書き方」なんて小冊子を作って大学の個人ページにアップしたりした。その参考に読んでいたのだろう。そんなわけで、「基礎演習」の授業について考えるときに名前の挙げられる本にはたいてい、目を通していた。が、この苅谷(2002)は未読であったという次第。だから、買ってきた。

論文の書き方というよりは、そのための設問の立て方に役立てられるような考え方の訓練の書だ。

話はずれるが、この第4章「複眼思考を身につける」の3「〈問題を問うこと〉を問う」「ステップ1 問題のはやり・すたり」(334-344ページ)では注目すべき指摘がなされている。

ここで苅谷は1989年と1996年、ふたつの少年恐喝事件の新聞記事を比較し、「いじめ」の語が後者にだけ使われていることに注意を促す。それから『広辞苑』の76年版(第2版改訂版)、83年版(第3版)、91年版(第4版)を引き、91年版のみに「いじめ」の語が出ていることを突き止めるのだ。つまり、「いじめ」というのが学校内外における就学年齢児の暴力、恐喝事件等をさすようになったのは、90年ころなのだ、と。

そして逆に、いったん「いじめ」という語が定着すると、なんでもかんでもそれに結びつけるようなレッテル化、ラベリングが進行すると。

ところで、苅谷はだいぶ早い時期(46-47)のコラムでロラン・バルト『神話作用』を挙げ、彼の神話作用とは「歴史を自然に移行させる」ことだとの言葉を紹介している。「いじめ」という語はこのように歴史化可能なのだが、そういった意識を抱かず、それを自然と感じてしまうことが、つまり神話化だ。だからこうした「自然」な概念を歴史化することは、脱神話化。「いじめ」の脱神話化を行っているという次第。


そういえば、90年ごろ、ある「いじめ」による自殺事件を受け、蓮實重彦が新聞紙上で個別の刑事事件相当の犯罪をそんな語で糊塗して反応を誤ってはいけないと指摘したことがあった。その文章にぼくは目から鱗が落ちる思いをしたのだった。爾来、恐喝や暴行を「いじめ」と、強制わいせつを「セクハラ」と表現する婉曲語法を意識するようになったと思う。

2013年9月12日木曜日

オックスフォードを考えてみた

たとえば、ギジェルモ・マルティネス『オックスフォード連続殺人』和泉圭亮訳(扶桑社ミステリー、2006)なんてのを読むと、オックスフォード大学に留学したアルゼンチン人数学生の主人公=語り手に対し、指導教授のエミリー・ブロンソン教授というのが、えらく懇切丁寧だという感慨を抱く。空港に迎えに行けないことを詫び、そこから大学までの道のりを細かく教えたりする。最初の出会いの時にはこんな感じだ。

一見とり澄ましてどこか内気そうに見えるが、時々鋭く辛らつなユーモアを言い放つ。表現は控えめではあったが、「ブロンソンの空間」と題した私の学士研究論文を気に入ってくれたようすだった。最初に会ったとき、ブロンソン教授は私がすぐに研究を始められるようにと彼女の最新の論文二本の抜き刷りをくれた。また、新学期が始まると自由な時間が少なくなってしまうだろうと言って、オックスフォードの観光案内パンフレットと地図もくれた。「ブエノスアイレスの生活と比べて特に何か不自由なことがあるかしら」と聞かれたので、「またテニスがしたい」とほのめかしてみると、もっととっぴな頼みごとにも驚かないわとでも言いたげな微笑を浮かべて、「そんなことなら簡単にアレンジできるわよ」と確約してくれた。(20ページ)

いくら大学院生だからといって、指導教授が趣味のテニスのアレンジメントまでしてくれるものだろうか? 「学士研究論文」と書いてあるのは、普通に考えれば学部の卒業論文のことだが、指導教授がそれを丹念に読み、その方向に沿った論文を学期前に渡す、なんてどういうコミュニケーションの取り方なのだろう? イギリスの大学のあり方がどうにもよくわからない。

あるいは同じ小説のもっと先、伝説の数学者アーサー・セルダムと「私」が推理を闘わせるシーン。

 マートン・カレッジのフェロー用のハイテーブルに残っていたのは教授と私だけだった。正面の壁にはカレッジ出身の偉人たちの肖像画が一列に掛かっている。肖像画の下に付いているブロンズのプレートにシルされた名前のうち、私が知っていたのはT・S・エリオットだけだった。(75ページ)

フェロー? うーん……よくわからないのだよな。カレッジ(コリッジと書きたい、むしろ)の制度のことが、ぼくは本当によくわかっていないのだよ。

だから、読んでみた。

苅谷剛彦『グローバル化時代の大学論② イギリスの大学・ニッポンの大学:カレッジ、チュートリアル、エリート教育』(中公新書ラクレ、2012)

「②」というのは、「①」として『アメリカの大学・ニッポンの大学』が既にあるからだ。TA制度を中心に彼我の差を論じたこちらの方は、まあいい。アメリカ合衆国の大学については既に多くが書かれてきたし、特に疑問もないので、とりあえず、この「②」を。

で、まあイギリスの大学、特にオックスブリッジがユニヴァーシティとカレッジの二重構造でできていること、講義は補助として行われ、出席されるもので、教育の中心ではないこと、チューターによる個別指導を基にして、最終的に試験に合格すれば卒業できること、などが説明されているこの書を読んで、少しはイギリスの大学のしくみはわかった。うらやましいシステムだと思う。

うらやましいシステムだと思う。つまり、少数派のためのエリート教育なのだ。もちろん、格差社会と意欲格差の関係をえぐり出して鋭い教育社会学者・苅谷剛彦はそのことを自覚している。大衆化とグローバリゼーション(の基本にある市場至上主義)への対応や反発を描写しながらまとめている。

(……)一方で授業料の値上げにより大学教育の機会が狭められることを憂い、他方で、能力主義を称揚し、さらには、教養主義的・人文主義的な教育の維持を謳うことができる。こうした主張を支えているのは、選ばれた者たちに特権的な教育を与えることを、ためらうことも恥じらうこともなく、堂々と肯定できる歴史の重みである。(133ページ)

こうした「歴史の重み」もなく、大陸ヨーロッパの大学をモデルとした一方的な講義形式を基調としつつ、「グローバル化」への対応をと焦る日本の大学の問題点を、最後に挙げるとなると、こちらとしては眉に唾してかかりたくなるのだが、指摘する問題点がシンプルなので、ほっとする。「大学教育が実質3年間になっているのに、人文社会系では、他の国々で生じているような大学院教育へのシフトが起きていない」(150ページ)

だから、東大が秋入学だなどというのなら、1年半または2年半の修士課程の充実を図って対処すればいいのだと。


うーん。シンプルな提案だ。理念としては賛成できる。うーん。

2013年9月5日木曜日

引き続き読むことのなまめかしさを思う

ニロ・クルス作、西川信廣演出『熱帯のアンナ』@文学座アトリエ

キューバからの亡命家族出身のクルスが、フロリダのタンパでのキューバ人移民による葉巻工場を描いた作品(鴇澤麻由子訳)。

劇中では「レクター」と訳していたが、lector、朗読者の話。キューバの葉巻工場では、単純労働の工員たちの気を紛らわせるために朗読係というのがいて、読み聞かせをしていた。その読み聞かせの伝統を、禁酒法時代の合衆国でも頑なに守っている工場が舞台なのだ。葉巻工場の朗読係のことはアルベルト・マングエル(何度でもいうが、マンゲルだ)も書いているし、ビセンテ・アランダの映画『カルメン』でも、最初、ちらりとカルメンの働く工場内に朗読係が見えた。ぼくの母は大島紬の織工だったが、彼女も工場(こうば)で、そして工場が解体して家で織るようになってからは家で、常にラジオを聞きながら作業をしていたから(たぶん、ラジオは朗読係の後を継いだのだ)、この存在にはいささかの興味がある。そしてこの存在に焦点を当てた劇となると、俄然興味が沸くではないか。

禁酒法の時代だから、朗読係はラジオに取って代わられていてもおかしくなかった。でもサンティアゴ(斎藤志郎)の葉巻工場では朗読者を必要としていた。そして死んだ前任者に代わってフアン・フリアン(星智也)がやって来た。背が高く、声も美しい。サンティアゴの妻オフェリア(古坂るみ子)や娘のコンチータ(松岡依都美)、マレラ(栗田桃子)はメロメロだ。そしてフアン・フリアンの読むトルストイ『アンナ・カレーニナ』にすっかり心を奪われてしまう。

禁酒法の時代だから、そろそろ葉巻を作る仕事は機械化されていてもおかしくない。事実、サンティアゴの腹違いの弟チェチェ(高橋克明)は、工場を機械化しようと虎視眈々、狙っている。闘鶏にうつつを抜かして借金を無心してきたサンティアゴに、肩代わりに工場の権利をもらえそうだとなると、機械化を提案する。そしてそれを実行に移そうともする。が、伝統を守りたいと考える(そしてまた失業を恐れる)他の工員たちの反対に遭う。

時代の変化だけの問題ではない。チェチェはかつて、フアン・フリアンの2代前の朗読係に妻を寝取られ、駆け落ちされた過去がある。だからみんなは意趣返しであろうと邪推する。それはあながち外れてもいない。

そう。読む者はその物語内容と声とで、それを聞くものの心をとりこにするのだ。夫パロモ(大場泰正)の浮気を疑うコンチータはフアン・フリアンとの不倫に走り、マレラもフアン・フリアンへの思い断ちがたく、……と愛憎劇が展開する。読書が肉体を意識させ、官能を誘発するのだ。


フアン・フリアン役の星智也の声が素晴らしい。そしてまた194cmの偉丈夫。立派なものであった。文学座のサイトで声が確認できる

2013年9月3日火曜日

手探りの愛(読書)

アレハンドロ・サンブラ『盆栽/木々の私生活』松本健二訳(白水社、2013)

100ページ前後の中編を2作掲載した、サンブラ初の翻訳。

表題作は、言ってみればフリオという文学青年がエミリアという女の子に恋をして、盛んにセックスをして、分かれて、……というだけの話だが、……

面白いのは、登場人物のそのセックスが読書に結びついていること。

世界中のあらゆるディレッタントたちが一度はそうしてきたように、彼らもまた『ホヴァリ―夫人』の最初の何章かについて議論した。友人や知り合いを、それぞれシャルルかエンマかに分類し、彼ら自身が悲劇のボヴァリー夫婦と重なるかどうかを話し合った。ベッドではなんの問題もなく、それは二人ともエンマのようになろうと、エンマのようにフォジャールしようとしていたからで、彼らが思うに、エンマは間違いなくフォジャールが異様に上手だったはずであり、さらには今の時代に生きていればもっと上手にフォジャールしたはず、つまり二十世紀末のチリのサンティアゴに生きていれば、本のなかでよりもっと上手にフォジャールしていたに違いないからだった。(35-36)

「フォジャール」というのはfollar、つまりセックスするという意味の単語で、きわめてスペイン的な単語だから、あまりチリでは使わないはずだけども、エミリアがこの語を使うことを提唱するのだ。

で、それにしても、エンマ・ボヴァリーが床上手かどうかなどと、考えながら読んだことないな、そういえば。色気も盛りの10代の少年少女の読みはすごいなと思うのであった。

このふたりは、お互いにプルーストを全部読んだと嘘をつくところからつき合いを始めたふたりだ。こうして本を読んでいくうちに、『失われた時を求めて』に突き当たらざるを得ない。そのさいの駆け引きが面白い。

二人とも、今回一緒に読むことが、まさしく待ち望んでいた再読であるかのように装わなくてはならなかったので、特に記憶に残りそうな数多い断章のどれかにさしかかると、声を上ずらせたり、いかにも勝手知ったる場面であるかのごとく、感情をあらわに見つめ合ったりした。フリオに至っては、あるとき、今度こそプルーストを本当に読んでいる気がする、とまで言ってのけ、それに対しエミリアは、かすかに悲しげに手を握って応えるのだった。
 彼らは聡明だったので、有名だとわかっているエピソードは飛ばして読んだ。みんなはここで感動してるから、自分は別のここで感動しよう、と。読み始める前、念には念をということで、『失われた時を求めて』を読んだ者にとって、その読書体験を振り返ることがいかに難しいかを確かめ合った。読んだあとでもまだ読みかけのように思える類の本ね、とエミリアが言った。いつまでも再読を続けることになる類の本さ、とフリオが言った。(37)

いいな。これ、ボラーニョ『2666』の話題になったときにでも使いたいな。

いや、ぼくは実際、ボラーニョは読んだのだけど、読んでもなお、読み尽くしていないと思える本について語ることは、読んでもいない本についてごまかしながら語ることに似ているという、そんなことに気づかされる。


そしてそれはきっと男女間の営みというか、関係というか、それに似ている。

2013年9月1日日曜日

快挙!


(写真はイメージ)

過去の記事を少し見返してみたら、「縮小経済を生きる」というタグを作ったことを思いだした。

去年の秋に愛車ポロを手放し、しばらくは車も使うだろうと思ったので、タイムズのカーシェアリングの会員になった。月々1,000円の会費で自動車を使う(予約制)権利が得られるというもの。使用する場合には使用料が別途発生する。たまに使うぶんには便利だ。が、この1年近くで一度しか利用しなかった。だから退会することにした。

そして、この夏、7月分も8月分も電気料金が10,000円を切り、5,000円前後で済んだ。この10年来初の快挙だ。(イメージ写真は電気代を節約してロウソクで生活しているという図ではない。念のため)

……ま、暑さの盛りの時間を大学の研究室で過ごしているというだけのことなのだが。でもまあ、それでも快挙だ。なあんだ、ちゃんと縮小経済を生きているんじゃないか。


……が、そう思ったのもつかの間、また引っ越そうとしているのだから、これでは引っ越し貧乏だ。やれやれ。

2013年8月30日金曜日

書かないメディアが書くことを書く。

ウォルター・サレス『オン・ザ・ロード』(フランス、ブラジル、2012)

うーん、ヴァルテル・サレスでなくていいのか? 

まあいい。ケルアックの小説に書かれていなくて、この映画に取り込まれた点は、サル・パラダイス(サム・ライリー)ことケルアックが、ディーン・モリアーティ(ギャレット・ヘドランド)ことニール・キャサディとの旅のことを書く存在である点が強調されていることだ。旅の途中サルはひたすら書いている。メモ帳もそれを買い足す金もなくなると、紙を拾ってそこに書きつける。ただひたすらに書きつけるのだ。

ただし、彼がそれをいざ小説にまとめようと思うと、タイプライターを前に書きあぐね、ただの一行も書けなかったりする。本を取り出し、ノートを見、そしてまた必要性を感じてメキシコに旅立ったりする。ノートを見ることが文章をまとめるのに役立たず、むしろ新たな旅を誘う。新たな取材へといざなう。

しかして、いざサルが霊感を得て書きだしたとき、それまでに体験した言葉がステレオ放送のように左右から前後から聞こえてきて、キーパンチングの音と溶け合ってひとつの音楽を構成する。やがて現実にBGMが流れてくる。この音楽=テクストの誕生の瞬間が貴重だ。

ぼくたちは誰も本を読むとき、文章を書くとき、頭の中に音楽を流す。が、内的な音楽はぼくたちの経験の音楽に過ぎない。ぼくたちの経験を凌駕する音楽を、外から与えてくれたら、ぼくらはそれに驚き、感動する。


帰りの電車の中で読み終わったのは、フアン・ホセ・サエール『孤児』寺尾隆吉訳(水声社、2013)。ぼくの中には読書中、ぼくだけの音楽が流れる。『孤児』は人喰いの話だ。人喰いについてはぼくは特別な音楽を持っている。だが、それを語り始めると長くなる。だから今は語りたくない。

2013年8月29日木曜日

昔を思い出す(映画的記憶の連鎖)

乙女座のぼくは50歳になった。もう大人だ。

大人だからいろいろなことを思い出す。

今日、試写をふたつ続けて見た。泣きそうになることばかり。

ホアキン・オリストレル『地中海式 人生のレシピ』(スペイン、2009)

主演はオリビア・モリーナ。あのアンヘラ・モリーナの娘だ。しかももう29歳(当時)だ。同じ試写会の場にいた知り合いの女性たちは、最初の数分、10代のころの設定には無理が、違和感が感じられたと言っていたが、ブニュエルの『欲望の曖昧な対象』を何度も見たぼくとしては、母の思い出に取り憑かれていた。チラシやポスターの写真では気づかないけれども、動いてみればこれがそっくりなのだ。

しかも、その違和感ある10代のころの話しなどすぐ終わる。さすがに『電話でアモーレ』(この邦題もいかがなものかと思うが)などのオリストレル監督だけあってテンポ良い作りだ。

天才的な料理人ソフィア(モリーナ)が堅実な不動産セールスマンに育ったトニ(パコ・レオン)と遊び人で金もある接客業のフランク(アルフォンソ・バッサベ)、2人の幼なじみと独特の関係を保ちながらシェフとして成長していく話。それを生まれる直前の娘が語る。

男2人に女ひとりの3人組だ。これまで数多く生み出されてきたパターンだ。どれが最初かは知らないが、少なくとも一番印象深く思い出されるのは、『突然炎の如く』だ、もちろん。そして、当然のことながら映画は、それへの目配せも忘れていない。

しかし、トリュフォーと違い、こちらはいささかも思弁的ではないのだ。ソフィアが夫トニと仕事仲間フランクと3人での関係を提唱し、それを続けていくのだが、もちろん、途中で怒鳴りあいがあったり嫉妬があったり、周囲の誹謗中傷があったりはするけれども、なんだかあっけらかんとしているのだ、この関係が。それもおそらく物語の語りのテンポのおかげだろうけれども。

そういえば、こういう関係をménage à trois というのだった。3P? …… そしてメナージュ・ア・トロワはボラーニョ『2666』第一部の学者たちのオブセッションなのだった。ボラーニョも思いだしたのだった。

2作目は:グスタボ・タレット『ブエノスアイレス恋愛事情』(アルゼンチン、スペイン、ドイツ、2011)

ピラール・ロベス・デ・アヤラがポルテ―ニョ風のしゃべり方を身につけ、いい。

ブエノスアイレスのおたがいにすぐ近くに住んでいる内向的な独り身の男女(ロペス・デ・アヤラとハビエル・ドロラス)の至近距離でのすれ違いを描いて身につまされる。

こちらは、オマージュを捧げる対象はウディ・アレン。パン・ダウンこそしないものの、ブエノスアイレスの林立するビルを映し出す冒頭は、『マンハッタン』や『ミッドナイト・イン・パリ』を想起させる。事実、2人はお互いに知らずして、同じ時間にTV放映されている『マンハッタン』のあのウディとマリエル・ヘミングウェイの別れのシーンで涙を流している。

仕事に使うマネキンを洗うピラールの手がなまめかしく、いい。精神科医と一度だけの関係を持った後、隣のピアノの音に腹を立ててマグカップを壁に投げつけ、それから泣く場面などは果たして身につまされているんだかピラールにほだされているんだか……

ボカ地区ともコリエンテス通りともコロン劇場とも無関係な(コロン劇場工事中という衝立の前は通るけど)ブエノスアイレス。


ブエノスアイレスでは独居者向けの狭いアパートは「靴箱」というのだそうだ。マルティン(ドロラス)の住む「靴箱」は40数平方メートル……それを独居者向けのアパートとしては広い方だと見なすほかない東京の住宅事情……ああ、いかん! ぼくはまた引っ越そうとしているのだ。

2013年8月14日水曜日

極限はどこにある

ホセ・ドノソ『境界なき土地』寺尾隆吉訳(水声社、2013)

訳者の寺尾隆吉が「あとがき」冒頭に、死後明らかになった作家本人の淫靡な性向の話題をほのめかし、その後、この小説のリプステインによる映画化作品にプイグが脚本家として加わったという話題などまで出しているので、われわれ読者はマヌエラという性倒錯者(いわゆる「おかま」)をめぐる過去と現在、ふたつの嬌態をクライマックスとしたこの小説の、クイアな世界にまず目を向けてしまうのかもしれない。

「ふたつの嬌態」のうち過去のものは、踊り子としてある娼館にやってきたマヌエラが男たちに愚弄され、傷つき、その隙を突かれてハポネサという娼婦と関係を持ってしまうという話。現在のものはそのマヌエラがパンチョという男と関係を持つのか、持たないのか? という話。

性の問題に関していうなら、マヌエラのクイアネスよりも、彼女を愚弄し、時には関係を持とうとさえする男たちのマチスモの方が怖い。それに乗じて彼女と関係を持ち、子をもうけ、娼館まで手に入れるハポネサの狡猾さが怖い。ハポネサは地元の有力者ドン・アレホと賭けをして、その娼館を自分のものとし、マヌエラを共同経営者とするのだ。ドン・アレホは代議士で、国道が通ろうとするこの町を投機の対象とするが、結局は電気ひとつ通すこともしない人物だ。が、パンチョは自分が彼の子だと言い張り、マヌエラとハポネサの娘ハポネシータも彼の子だと思っている。土地はすべて彼のもの、人はみな彼の子供という、ペドロ・パラモみたいな人物だ。そんな彼への借金による負い目とその精算の問題が、パンチョをマヌエラとも関係を持ちそうな勢いのひとりのオスに変えているようなのだ。

そうしたクイアネスとマチスモを表現しているが、造り自体は端正な小説だ。各章にひとつずつ新しい情報を導入したり、視点を変えたり、話法をあれこれ取り入れたり、ドン・アレホとパンチョの関係の処理も短編小説のようだったり、と。

何より、人里離れた一軒家、という典型的な場面設定が雰囲気をつくり出している。別荘とか、田舎の家とか、町はずれの娼館、といった、閉ざされた空間だ。電気の切断はこうした空間を切迫感ある場面へと変える(同じチリのアリエル・ドルフマン『死と乙女』など)。この町、エスタシオン・エル・オリーボは、そもそも電気が通っていないし、通る見込みもない場所だ。

こうした場所に外部から車の音やクラクション、馬のひづめの音、犬の吠え声などがもたらされたら、切迫感はいや増す。馬にしても車にしても、こうした外部からの音は性的強迫観念をも思わせるだろう(『死と乙女』もそうだ。そして馬ならばガルシア=ロルカだ)。これらの設定をして端正と言わざるを得ないのだ。


端正な放縦。あまりに端正すぎてどこから引用すればいいのかわからないぜ。

2013年8月10日土曜日

インディアン、嘘ついてもいいよ

ゴア・ヴァービンスキ『ローン・レンジャー』(アメリカ、2013)

何度か授業で扱ったジャームッシュの『デッドマン』のことをそろそろ本気で活字にしなければと思っていた矢先に、きっとその対としてチェックしておかなければならない作品に違いないと思われるものが現れた。それが、これ。だから観に行った。

なにしろ:

1) (米墨関係史をメキシコ側から眺めれば)悪名高いテキサス・レンジャーズの歴史性を背景に
2) 1930年代、大恐慌の真っ只中、戦争の用意期間に生み出されたヒーローで
3) スペイン語で「バカ」という意味の名を持つ従順な(「女性のよう」とドルフマンは皮肉った)先住民を従えた人物の

映画だとなれば、ましてや、

4) その従者トントを、あの名作『デッドマン』で素晴らしい主役を演じたジョニー・デップが演じる

となれば、『パイレーツ・オブ・カリビアン』の監督との息の合った組み合わせで、どれだけ自暴自棄に演じるか、楽しみではないか。

そりゃあね、いかにハリウッド映画とは言え、たとえディズニーの配給だとは言え、ナイーヴに白人はヒーローでござい、ってな調子には今では行くまい。先住民コマンチ族とのフロンティアを描いていても、彼らを悪人にするわけでもないし、かといって単なる善人というような存在にもしない。悪役の中にヘススという二言三言スペイン語をしゃべる者がいるが、それは飾りみたいなもの。結局のところ、悪は資本と富でした、それを求める人間の貪欲でした、という結果になるのは、皮肉というか、陳腐というか、ディズニーよ、お前が言うか?

それで、ローン・レンジャーというのはもともと、1930年代に続々と現れたバットマンやスーパーマンといったヒーローものの主人公と違い、昼間の顔というか素顔というか、正体というか、それを持たないものだった。だからアイデンティティの危機を感じない、苦悩しないヒーローだったのだ。そしてだからこそ他のヒーローと異なり、分裂気味になることがなかったので、逆に、皮肉なことに時代にとり残され、忘れ去られていった存在だったのだ(アリエル・ドルフマン『子どものメディアを読む』諸岡敏行訳、晶文社、1992)。「キモサベ」「ハイヨー、シルヴァー」「インディアン、嘘つかない」らの流行語だけを残して、ローン・レンジャーは忘れられた。

今回このヒーローが生き返ることになったのは、ローン・レンジャーのこうした特性をまるっきり否定することによってだった。正体は悩める新米判事兼テキサス・レンジャー、ジョン・リード(アーミー・ハマー)。トントは従順な馬鹿者などではなく、彼を最初は拒絶し、後に渋々と教え導き、時には喧嘩する存在だ。だから竿立ちになった馬にまたがってリードが「ハイヨー、シルヴァー」と叫ぶと、「そんなことするな」と戒めたりする。

さて、しかし、そんなわけで、ヒーローものというよりはテキサスという舞台設定に着目して徹底して西部劇であることを目指した『ローン・レンジャー』は、西部劇であるという意味において面白いものに仕上がっていると思う。

そしてなにより、『デッドマン』冒頭の西部劇の関節の外し方に対する目配せというか、応答というか、そうしたものが散見された。


と、ジャームッシュを引きあいに出せば、その規模の映画かと思われるかもしれないが、それはまったくそうではなくて、ともかくまあ、次から次へとスペクタクルを用意して実に2時間半以上も飽きさせないエンターテインメントではある。最近のスペクタクルものって、それにしても、長くなるばかりだな。

2013年8月9日金曜日

ああ! めんどくさ!……

6月中に献本をいただいていたのだが、7月もだいぶ遅くなってから電車内でちまちまと読み始めたので、今、読み終えた次第(という言い訳めいた言辞を、自分で書いておいて情けなく思う。しなければいいのだ、こんな言い訳)。

マリオ・ヂ・アンドラーヂ『マクナイーマ:つかみどころのない英雄』福嶋伸洋訳(松籟社、2013)。

〈創造するラテンアメリカ〉シリーズ第3弾だ。第2弾(というのは、アイラの『わたしの物語』拙訳だ)についで、ですます調で、かつひとをくったような話だ。原書は1928年。モデルニスモ真っ盛りのブラジルにおける、ひとつの頂点だ。

密林の奥で生まれ、生まれてから6年間は「ああ! めんどくさ!」以外ひと言も発しない奇妙な子として育ったマクナイーマは、母が死んで旅に出、森の母神シーと「じゃれあ」い、これを妻として、密林の皇帝になり、やがてサンパウロに出て、生涯の敵ヴェンセスラウ・ピエトラ・ピエトロと対峙し……と筋を追おうとすると、途中で、主人公とともに叫ばざるを得なくなるのだ「ああ! めんどくさ!」(これは作品中、何度も発される叫び)

実際、「つかみどころのない英雄」との副題は良く言ったもので、この小説において筋は二次的な問題だ。

「どっかに行け、疫病め!」
 そして兄さんたちのところにやってきました。
「もうぼくは小屋〔パピリ〕なんて作らないよ!」
 そしてレンガ石や屋根や金具を雲のようなサウーヴァ蟻の大群に変えると、それは三日間サンパウロを覆いました。
 ムカデはカンピーナスに落ちました。イモ虫はそこらへんに落ちました。ボールは運動場に落ちました。マアナペはコーヒー虫を生み出し、ジゲーは綿花を食べるピンクイモ虫を生み出し、マクナイーマはサッカーを生み出し、こうしてブラジルの三大害虫が生まれたのです。(64ページ。〔 〕内はルビ)

なんていう語りを小説のコードで読み解くことができるはずはないのだ。昔話のような、アレゴリーのようなこの語りは何かを思わせる。

同年に発表されたミゲル・アンヘル・アストゥリアスの『グアテマラ伝説集』だ、例えば。

 風に運ばれてきた三人は、小鳥のように果物を糧〔かて〕としていた。
 川を流れてきた三人は、魚のように星を糧としていた。
 風に運ばれてきた三人は森のなかで、時にはすべり動く蛇がかさかさと音をたてている落葉にもぐって、またある時には、高い枝に登り、栗鼠〔りす〕、鼻熊〔はなぐま〕、尾長猿〔おながざる〕、ミコレオン、イグアナ、そして洗い熊などの間で夜を過ごした。(「火山の伝説」『グアテマラ伝説集』牛島信明訳〔岩波文庫〕、42ページ)

な? 

アストゥリアスが『ポポル・ヴフ』の翻訳からこの語り口を獲得したように、アンドラーヂも先住民の語りからこの題材と語り口を獲得した。底本としてあるのは、福嶋さんの「あとがき」によると、コッホ=グリュンベルク『ロライーマからオリノコ川へ』(1917)だという。アストゥリアスの盟友カルペンティエールに、その後、『失われた足跡』を書かしめた書だ。


アンドラーヂの場合、先住民の語りを取り入れつつ現代的な風味を加え、かつ、マクナイーマにブラジル民衆の中に息づく悪者(とでも言えばいいのか? マランドラードというやつだ)の典型のような人格を造型してみせたことが特徴なのだろう。だから、だいぶ愛されているようなのだ、この英雄は。「健康〔サウーヂ〕はわずか、サウーヴァ蟻はたくさん、それがブラジルの害悪だ」(もうひとつのくり返される口癖)という、このサウダーヂの国で。

2013年8月1日木曜日

地獄の季節

ぼくらにとって7月末は地獄の季節だ。「かつては、私の記憶に狂いがなければ、私の生活は宴だった。ありとあらゆる人の心が開かれ、酒という酒が溢れ流れた宴だった」(宇佐美斉訳)だ。授業を力尽くで終わらせ、試験をつくり、試験をし、そのことで罵声を浴び(なぜだ?)、採点し、採点はまだ終わらず、ここぞとばかりに合宿に行ったり、そして打ちあげ、キックアウト、等々……しかし通常の仕事も続く……

7月下旬最大のイペントは、やはり、「『2666』ナイト第4回」。ゲストはいとうせいこうさん。

「第4部はダンサブルである」とのテーゼがひときわ心に残った。ぼくはつい最近、あるところにこのメガノベルの書評を書き、第4部は辛いけれども、がんばって読め、というような精神論的なアドバイスをしたのだが、ああ! もう少し早くこの言葉を聞いていれば……「第4部は踊りながら読め」と書けたのだけどな。

会場でこの10月から刊行の始まる「ボラーニョ・コレクション」全8巻のフライヤーをいただいた。巻末に訳者ではない人の解説を掲載する形式らしい。以下、( )内は 訳者/解説者

『売女の人殺し』(松本健二/若島正)
『鼻持ちならないガウチョ』(久野量一/青山南)
『通話』〔改訳〕(松本健二/いとうせいこう)
『アメリカ大陸のナチス文学』(野谷文昭/円城塔)
『はるかな星』(斎藤文子/鴻巣友季子)
『第三帝国』(柳原孝敦/都甲幸治)
『ムシュー・パン』(松本健二/いしいしんじ)
『チリ夜想曲』(野谷文昭/小野正嗣)

改訳がひとつ。短編集4作、中編3作、長編1作。松本訳3作(うち1冊は改訳)、野谷訳2作、久野、斎藤、柳原訳各1作ずつ。解説者にひらがなだけの名の人が2人。

以上が、このラインナップの特徴だ。

ふむ。楽しみ♪

ところで、配本はこの順番なのだろうか? 『売女の人殺し』は既に10月刊と明記されているし、『鼻持ちならないガウチョ』もやっているよ、と訳者はおっしゃっていた。『通話』は改訳。ということは、やはり、この順番に配本なんだろうな。『第三帝国』はまだまだ先だ。


あ、いや、……別に安心しているわけではなく……

2013年7月20日土曜日

団結せよ(2)

『ブランカニーヴス』問題の続き。作品の公式ツイッターにはこうある:


やはり『ブランカニーヴス』という邦題は確信犯なのだ。本当は、スペイン語の発音に近づけるなら『ブランカニエベス』の方がいいとわかっていながら、この表記にしたのだ。「目で見た覚えやすさと、口に出した発音のしやすさを優先させた」と。

「目で見た覚えやすさ」と「口に出した発音のしやすさ」について異議を唱えることは簡単だ。日本人もスペイン人同様ヴ/ブの区別をしない。日本人にはヴやフ(f ということだが)の発音に大変苦労するひとがいる。かなりの数、だ。毎年ぼくはそんな日本人の発音特性に悩まされている。

でもまあ、それはいい。『ブランカニーヴス』の方が『ブランカニエベス』よりも覚えやすく発音しやすいというたかだか数人(と思われる)の映画配給会社スタッフの共通した感覚などはどうでもいい。なんなら認めてもいい。が、しかし、そんな感覚を優先させ、『ブランカニエベス』の方が一般に流通するスペイン語の音表記なのだという事実を、それと知りながら無視したということを、このツイートは認めているのだ。つまり、個人の感覚を知的誠実に優先させたと告げているのだ。

ちっぽけな個人の感覚が超えられないものがあるとするなら、それは、そこにある現実(言語的現実も含め……つまり、Blancanievesがどう発音されるかという事実)や、その現実を対象に人間が築き上げてきた歴史(スペイン語をカタカナで表記する仕方の伝統)であるはずだ。だからこそわれわれは長い時間をかけて教育を受け、歴史に対する畏怖の念(それを知性と呼ぶ)を身につけてから社会に出て行くのだ。その畏怖の念(知性)に基づいて公の発言をするのだ。そんな単純な法則も忘れ、この関係性を逆転させうると感じる、ノリ。悪のり。夜郎自大な世界感覚。俺が世界よりも大きいと考える尊大。

この尊大さが怖いのだ。この尊大さが一部の政治家たちに似ているのだ。この尊大さが、自身の発言の届く範囲内を理解しない子供じみた妄言の印象を与えるのだ。それをぼくは恐怖するのだ。


ぼくは現実の側に立ち、歴史の側に立ち、知的誠実を発揮し、思い上がった個人の尊大さを非難する。

2013年7月18日木曜日

全国のスペイン語話者たちよ団結せよ

FB上で知人がこのリンクを教えてくれた。


やれやれ。ゴヤ賞10部門受賞のこの話題作にして、こんなタイトルになってしまうのだ。もう笑うしかないな。

Blancanieves だ。『ブランカニエベス』。白雪姫

白雪姫、といってもぼくらが知っているあの白雪姫の話とはずいぶん意匠を異にする。だから、『白雪姫』とはしたくなかったのかもしれないが……それにしても、ブランカニーヴスって……

パブロ・ベルガーでなくパブロ・ベルヘルと表記することを知り、ダニエル・ヒメネス・カチョDaniel Giménez Cachoやアンヘラ・モリーナAngela Molina を正しく表記できる配給会社の人が、まさかBlancanievesブランカニエベスと読むことを知らないとは思われない。これはもう確信犯なのだ。

これは確信犯なのだ。これを『ブランカニーヴス』という表記にすることは。であるならば、われわれ、全国のスペイン語話者は声をひとつにして抗議しなければならない。

Blancanievesブランカニエベスであることを知っているはずの人が、ブランカニーヴスと表記して毫も恥じないでいられるメンタリティ。これは何かに似ている。

何だろう? 

たとえば、従軍慰安婦は必要だった、と発言し、その発言がビデオでくり返し流され、衆目のものとに晒されたのに、そうは言っていないと言い張る政治家の態度か?

トルコの人が聞いていることくらい意識しうるはずなのに、「イスラムの国々は喧嘩ばかりしている」と言ってはばからない政治家の態度か? 

この類似は少々飛躍が過ぎるだろうか? でも自分の発言が届く範囲に対する配慮不足という意味で、似ているような気もするのだが……

やれやれ。それにしても、『ブランカニーヴス』だぜ、『ブランカニーヴス』


まったく、笑っちゃうね。と言いたくなる点でも、政治家たちの態度に似ている。政治家たちは時代に似ている。

2013年7月15日月曜日

ポストコロニアル・ヘーゲル

Susan Buck-Morss, Hegel, Haiti, and Universal History (Pittsburgh, University of Pittsburgh Press, 2009)

先日(13日の土曜日)、同僚の武田千香さんの博士論文の口頭試問の席で、主査の今福龍太さんに示唆された書物が、これ。この第一章「ヘーゲルとハイチ」は2000年のCritical Inquiryに掲載され、それが高橋明史訳で『現代思想』2007年7月臨時増刊号「特集 ヘーゲル『精神現象学』二〇〇年の転回」に掲載された(144-183ページ)。これを第1章とし、「第1章へのイントロダクション」および「第2章へのイントロダクション」と「第2章 世界史」をつけ加えたのが本書。

自由を希求する思想である啓蒙思想は、黒人たちの自由を認めない実践としての奴隷制の上に成り立ち、奴隷の存在を無視したことと背理をなす。とりわけ「主人と奴隷の弁証法」で名高いヘーゲルの『精神現象学』は世界で最初の奴隷解放の結実だったハイチ革命と同時代に、それからのインパクトを基に書かれている。

「支配と隷属との関係についてのヘーゲルのアイディアはどこから来たのだろうか」、とヘーゲルの専門家たちは、主人と奴隷との「死をかけた闘争」という有名なメタファーを指してくり返し問うているが、ヘーゲルにとって世界史における自由の解明の鍵となるところのこのメタファーをはじめて詳述した『精神現象学』が書かれたのはイエーナ時代の一八〇五―一八〇六(ハイチ国民が誕生した年)、出版されたのは一八〇七年(イギリスが奴隷貿易を廃止した年)であった。まったく、どこから来たのだろうか。ドイツ哲学の思想史家たちは、その答えを探すのに一つの場所しか知らない。つまり他の知識人たちの著作である。(邦訳「ヘーゲルとハイチ」154ページ 太字は柳原)

ヘーゲルとハイチを結びつけたのは、バック=モース以前は、ピエール・フランクリン・タヴァレのみであったという。ただし、タヴァレの著作のうちのひとつを、その時点では未読だとの注もつけられている。

その注72は、本書では81になっている(49ページ)。

このエッセイが最初に活字化された時点(2000年)で、私はタヴァレの基の論文「ヘーゲルとハイチ」を未読であった。論文ではヘーゲルのフリーメーソンとの繋がりが扱われている。タヴァレの論文については「世界史」の章で議論する。(略)

ヘーゲルとフリーメーソン! ここにいたって問題は一気に我々のものともなる。

ヘーゲルとハイチとの繋がりを指摘することは、シェイクスピアがバミューダの遭難事故を基に『テンペスト』を書いたとする指摘と同じくらいに、あるいはそれ以上に重要だろう。シェイクスピアの『テンペスト』からは多くの重要な著作が二次的に生みだされ、それらを論じるポストコロニアル批評の議論も百出した。であれば、ここから多くの議論が展開されるべきだろう。

ヘーゲルとフリーメーソンとの繋がりという指摘に、ぼくが「!」をつけたがるのは、カルペンティエールとの繋がりがここで一気に開示されているように思うからだ。『この世の王国』でハイチ革命とヴードゥーを扱い、『光の世紀』でフランス革命のアンティーユ諸島への余波とフリーメーソンを扱ったカルペンティエールとの繋がりが。


読み直そう。10月からの授業のために。ヘーゲルとハイチ革命の見地からカルペンティエールを。

2013年7月1日月曜日

関係の切断

授業で『百年の孤独』を読んでいる。これを読むたびにいろいろなことを考えるのだが、確信を新たにすることのひとつが、伊井直行のデビュー作『草のかんむり』は『百年の孤独』解釈のひとつの形なのだということ。そのことは授業などでこれまでもたまに言ってきた。

このことはあまり言われなかった、と作家本人は嘆いている。たとえば、このインタビューなどだ。

うーん、そうなのか。これはどういうことだろう? 

1)1983年(『草のかんむり』の発表年)には、既に外国文学なんて日本文学関係者からは顧みられていなかった。
2)1983年にはまだ、ラテンアメリカ文学、あるいはガルシア=マルケスはまだ読まれていなかった。(前年、ガルシア=マルケスはノーベル賞を受賞している)
3)外国文学なんて、ましてやラテンアメリカ文学なんて、1983年以前も1983年以後も顧みられてはいない。

集英社(『草のかんむり』はライバル? 講談社から)の「ラテンアメリカの文学」シリーズの配本が終わるのが1984年。ぼくが大学に入って、実際にガルシア=マルケスやカルペンティエールを読み始めるのがこのころ。

どうもそんな時期にそんな教養形成をしてきた身としては、そのあたりの距離感がうまくつかめないのだが……

安部公房が『百年の孤独』をNHKのテレビで紹介したのはまだ79年くらいだったか? 中上健次がガルシア=マルケスにあいたがったのはもう80年代に入っていたと思うが。そして寺山修司『さらば箱船』はやはり1984年。


うーん、むしろ伊井直行と『百年の孤独』はもっと気づかれてしかるべき時代だったと思うのだけどなあ……

2013年6月23日日曜日

誤謬は焦点のずれから生まれる

ちょっと前にこんな報道がなされた。東大が9月入学を諦め、その代わりに4学期制を導入する、と。

秋入学というのは、外国の大学の70%がその仕組みだから、大学間の交流、学生の留学などに都合がいいので、そうしよう、という目論見だったのだ。それが、社会体制との兼ね合いで断念せざるを得ず、その代わりに4学期制を導入することに決めた、と。

こうした問題の場合、常にそうだが、ここで問題のすり替えが、少なくとも、その問題に対する視線のミスリードが行われている。表面だけを追う限り、なぜ2学期制をさらに半分にして4学期制にすることが秋入学の代替案になりうるのか、それがわかりにくいのではないか?

つまり、語られていることは、今の8月、9月の2ヶ月を夏休みに充てることをやめて、6、7、8月をそれに充てよう、という話なのだ。そうすれば、サマースクールなどにも行きやすくなる。

……ん? 

世界の水準に合わせるって、そういうことなのか? その程度の話なのか? 学生をたかだかサマースクール程度のものに派遣しやすくしよう、とかいうことなのか? 

考えてみよう。東大は危機感を抱いているという。大学ランキングが年々下がっているから、と。大学ランキングは教育面や研究面の成果をもとに産出されるのだ、と。つまり、その評価とかいうもののなにがしかの部分は研究が問題なのだ。

研究を語るならば、それは大学院以上の問題だ。世界の大学で学部レベルで「研究」など云々できるところはない。今野浩の言うように、日本の大学が学部一流、大学院二流であるならば(かつてそうであったならば)、危機感を持たなければならないのは、大学院レベルの話だ。だったら、研究目的の大学院(専門職養成の大学院でなく)の改革から着手すればいいんじゃないのか? それが気になる第一点。

第二点:なぜ6、7、8月を休みにするためには、4学期制にしなければならないのか? 4月入学で遅くとも6月一週くらいまでに終わらせるには、4分割しかあり得ないからだ。なぜ3分割、2分割はあり得ないのか? 単位の算出の問題だ。だったら、単位の計算方法を変えればいいのではないか? つまり、授業のありかたを変えればいいのだろう? 2時間と見なされる1.5時間(90分)――ただし、当の東大は100分――の授業を週1回×15週の授業、それに加えて15時間ばかりの自宅学習(をしたものと見なす)で2単位。どんな授業もそんな一様な数え方でやっているのが、現在の大学の授業の現状だ。4学期制にすることによって、そんな授業のあり方を変えようとしているのではないのか、東大は? それならば、ちょっと成り行きを見守ってみたいという気はする。


さて、最大の問題。社会とのずれがあるから秋入学が導入できない、と東大は言う。それならば、社会がそもそもおかしいのじゃないのか? そう考えてみたらどうだろう? 4月新卒採用の者を、しかもその前年の秋から、大学の授業の都合も考えずにごっそり刈り取っていき、かつ文化系の大学院修了者にはまだまだ門戸も狭い、狭量で頑迷、時代遅れな企業社会とやらに疑問を呈してみてはどうなのだ? 

2013年6月15日土曜日

メディアを一元化する

FB上で年少の友人がiPad miniを導入して、それに携帯電話などの機能も担わせて、というメディア一元化の試みを報告している。それにほだされ、感化されたわけではないが(感化されないわけでもないのだが)、確かに、iPad mini導入後、iPhoneが要らないなと感じ始めている。いっそのこと電話機は単なる電話機能があれば充分ではないかと感じ始めている。その他のスマートフォンゆえの機能は、iPad miniで済ませればいいのだ。

が、残念ながらiPhone導入はiPad mini導入の1ヶ月前のことで、まだまだ買い換えの時期でもない。

iPhoneのインターネット接続をしなければいいんですよ。とこともなげに別の若い友人が言う。

なるほど! 

若い人にはいろいろと教えられるなあ。確かに、iPhoneでのネット接続はWi-Fiのみにすればいいのだ。大学で。もしくは、手持ちのポケット・ルーターを使って。そうすればこのルーターの値段のみで済むのだ。名案だ。

『テレビでスペイン語』7月号と『英語で読む村上春樹』7月号。いずれもNHKの教材。後者に鈴村和成さんとの対談「村上春樹の想像力」が掲載されている。前者には連載「恋愛小説を読む」第4回。

2013年6月8日土曜日

『ローマでアモーレ』って邦題、どうなの?……

ウディ・アレン『ローマでアモーレ』(アメリカ、イタリア、スペイン、2012)

原題はTo Rome With Love だ。『ローマへ愛をこめて』だ。

余談1 終了後、出しなに後の若い女性2人組が話していた会話。「あのおじいちゃんが監督なんだってよ」「うそ。出演もしてるのに?」
 ……やれやれ。

余談2 ぼくらはなぜウディ・アレンの映画を見るのか? 理由のひとつは、本があるべき人の家には本がある、そんなセットを組んでくれているからだ。壁に作り付けの本棚に焦点が定まる必要はない。でも、そこにちゃんと本があるのだ。その部屋の住人が学生や建築家、作家、等々のインテリであるならば。

本題1 『ミッドナイト・イン・パリ』や『マンハッタン』に印象的な、夜警をゆっくりパン・ダウンしていく印象的なカメラ・ワークは、今回、オープニングでなく、エンディングに発揮された。

本題2 この映画のテーマは、なんて言い方をしたくないのだが、敢えて言えば、この映画のテーマは名声のむなしさと孤独、といったところか。いくつかのカップル(もしくは三角関係)を中心に進むこの映画のストーリーのうち、カップルが中心ではなく、現実離れしているのが、ロベルト・ベニーニ演ずるレオポルドのストーリー。時間軸も他とずれているのだが、これが楽しい。楽しくもあり、悲しくもある。しがない会社勤めの人間が、ある朝、テレビの番組に引き出され、すっかり有名人になってしまうという話だ。

本題3 3つある中心のひとつはウディ・アレンとジュディ・デイヴィス演じる夫婦が娘ヘイリー(アリソン・ピル)の婚約者ミケランジェロ(フラヴィオ・パレンティン)に会いにローマにやってくるという話。前衛的なオペラ演出家をやっていたジェリー(アレン)がミケランジェロの父ジャンカルロ(ファビオ・アルミリアート)のシャワーでの歌声に惚れ、葬儀屋だった彼をオペラの舞台に引き出す。その引き出し方がおかしい。ここには書かないが、ともかく、おかしい。

ウディ・アレンはある時期、明らかにギリシャ悲劇からその悲劇の系譜の末裔としてのオペラに関心をシフトしたが、今回、そのオペラをこれだけおかしな笑いのネタにして痛快だ。

本題4 『それでも恋するバルセローナ』に次いで、ペネロペ・クルスの使い方がうまい。彼女には英語をしゃべらせて、可愛らしい役に押し込めていてはいけない。イタリア語ならスペイン語のときにも似て、大胆不敵な人物が演じられる。

本題5 特筆したいのは、アレック・ボールドウィンの存在。30年前ローマで勉強し、今は有名建築家となったジョンの役。休暇でローマに来て、昔住んでいたあたりに散歩に行き、若い建築家志望のジャック(ジェシー・アイゼンバーグ)に声をかけられる。彼が恋人のサリー(グレタ・ガーウィグ)と住む家に招かれたあたりから、幽霊のような、狂言回しのような存在に変身する。若いふたりの家にサリーの友人モニカ(エレン・ペイジ)がやって来て、ジャックを翻弄する。ボールドウィンはジャックの心の声となって彼に忠告する役回りだ。

ウディ・アレンの怖いところは、知性派ぶったスノッブたちに対する痛烈な批判だ。時に反主知主義的とさえ言えるほどに知的階級の底の浅さをついて手厳しい。そしてまたそんな底の浅い知的スノッブでありながらも憎めず、魅力的だという女性を登場させる。格好の例が『アニー・ホール』のダイアン・キートン。

そんな底の浅いミーハーなスノッブとしてモニカを徹底的に批判するのが、ボールドウィンの役割。モニカは女優なのだが、彼女が何かの映画で役が決まったとはしゃぐときに見せるボールドウィンの表情は、戦慄を引き起こす。視線が痛すぎる。自身、軽佻浮薄な2枚目セレブというイメージを身にまとうかのような役がとても良く似合う(『ノッティングヒルの恋人』のカメオ出演のように)ボールドウィンが、いまではすっかり中年オヤジ体型を恥じようともせず、あたかも30年前の自分の軽薄さをたしなめるかのようにジャックをさとしてきて、その結果見せるあの表情には、やはり底の浅い知的スノッブにすぎないぼくは、涙まで誘われそうになった。

ボールドウィンの視線に刺され、自らの空虚にはっとするために、この映画は見なければならない。

メモ オペラのステージに引き出されるジャンカルロを演じるファビオ・アルミリアートは、実際のテノール。その彼が歌う歌が、なんというか、編集されている(『マッチポイント』のオペラの舞台も相当に変だったのだが、ともかく、今回、変なのは歌そのものだ)。『トスカ』のアリア「星は光りぬ」がいつのまにか『トゥーランドット』の「誰も寝てはならぬ」にすり替わっているのだ(曲名は片桐卓也によるプログラムの文章に教えていただいた)。この種の編集については、いろいろと考えてみる余地はあると思う。


映画は編集によって遠くはなれた場所がまるで地続きのような錯覚を与える。そんな編集のし方を当然としてロケハンやストーリー展開が作られてきた。今、誰もが知っている歌すらもこうしてつなぎ合わせて編集して、あたかもひとつの歌であるかのように見せている、このこと意味……

2013年6月7日金曜日

事後報告

もう一週間近く前のことだ。日本ラテンアメリカ学会第34回定期大会、二日目午後のシンポジウム「ラテンアメリカ研究の射程」でお話してきた。ぼくの「ラテンアメリカ主義再考」砂野幸稔「対象としての地域、想像される地域:アフリカ地域研究とカリブ海研究の接点から」園田節子「南北アメリカ近代華僑の地域間コミュニケーションから考える『地域』」中野由美子「『植民』対『征服』:合衆国『西部史』研究と先住民」に鈴木茂、工藤多香子のコメント。

ぼくは『ラテンアメリカ主義のレトリック』あとがきで書いた、その本には入れることのできなかった研究などの紹介をした。グローバル化による国民国家の変質に対抗するように、国家と草の根の両方からロジックの変化に対する挑戦が現れてきた、そうした認識を扱ったいくつかの研究者の態度を紹介した次第。時代が変われば認識が変わるのだ、という話。

そして休みなしの授業の日々が始まる……

今日は、授業であまり聴けなかったが、大学では「人類学的思考の沃野:追悼 山口昌男」というシンポジウムが行われていた。4限が早く終わったので30分だけ、青木保の基調講演を聴いた。

ぼくが大学に入ったころ、既に山口昌男はよく知られた人物で、ぼくも彼がAA研の所属で、授業などは持っていないのだということを知り、入学後、少なからず失望したような記憶がある。ある晩、都電荒川線西ヶ原四丁目の停留所(つまり、当時の外語の最寄り)近辺を歩いていると、酔っぱらいの中年代性の集団がいて、中のひとりが大声で「山口さん! 山口さん!」と呼び止めていた。見てみると山口昌男がふらふらとあらぬ方向に歩いていこうとしていたのだった。


山口昌男は酔ってふらふらと軽い歩みを見せる。それがまたよく似合う人であった。

2013年6月1日土曜日

昨日までと今日から

一昨日から昨日にかけて、新入生のオリエンテーション合宿に行ってきた。鴨川だ。二日目の昨日は、帰途、御宿にあるメキシコ人ドン・ロドリゴ・イ・ビベロ漂着の地とその記念塔というのを見にいった。フィリピンから任期を終えてメキシコに帰る途中のその役人が難破、漂着したことが、後の支倉常長の遣欧使節団につながったとかで、日本・メキシコ・スペイン3国友好400年を記念する今年にふさわしいルート、と言えるのだろうか。

写真はドン・ロドリゴの乗ったサン・フランシスコ号の漂着地とされる海岸。こういうところに行くと、ついつい、真っ先に海岸に下りてしまうのだ。

このことはちゃんと書き残しておかなきゃ、と思うのは、Facebook上で「明日からオリエンテーション合宿だ」と書いたら、卒業生から反応が来て、「私たちのときはどこに行きましたっけ?」と尋ねられたからだ。毎年、ブログなどに記していたので、記憶を回復できた次第。

ただし、引っ越したので、前のマンションのサーバーに展開していたHPはもう閉鎖され、過去の記録はウェブ上では閲覧できなくなった。それをどう回復するかの問題が残されているといえばいえる。

それはともかく、今日からは日本ラテンアメリカ学会第34回定期大会が獨協大学で開催される。ぼくは明日、二日目午後のシンポジウム「ラテンアメリカ研究の射程」にパネルとして参加する。基調報告のタイトルは「ラテンアメリカ主義再考」。準備が完璧に終わったと言えないところが悲しい。


さて……

2013年5月29日水曜日

自らを振り返る

26(日)には『2666』ナイト第2弾、佐々木敦VS野谷文昭@原宿Bibliothèqueに行ってきた。稀代のビブリオフィロ佐々木さんがビブリオフィロたるボラーニョのもたらす情動について語った。ボラーニョの文章には接続詞が極端に少ないとの野谷さんの指摘にはっとした。ひょっとしてぼくは余計な接続詞をおぎなって訳文を作ってしまっていないだろうか、と『野生の探偵たち』が気になった。

そんな自分の過去の訳業を、振り返りたくなりつつも振り返っていないのは、別の仕事を振り返らなければならないからだ。

6月1日(土)2日(日)と開催される日本ラテンアメリカ学会第34回大会@獨協大学で、二日目恒例のシンポジウムにパネルとして参加する。シンポジウムのタイトルは「ラテンアメリカ研究の射程」、ぼくの基調報告のタイトルは「ラテンアメリカ主義再考」。

『野生の探偵たち』(2010)以前、『ラテンアメリカ主義のレトリック』(2007)を振り返るというもの。振り返る、というよりは、そのとき課題として放置し、考慮に入れずにいた問題を、ここで考えようというわけだ。ちょっと前からのここでの記事も、少しだけその準備に侵食されている。


ちなみに、ぼくは現在、この学会の理事でもある。いやなこった。

2013年5月21日火曜日

「フランシスナカグロベーコン」も今は昔……


その昔、ポスターの最終校正を電話で伝えたとき、印刷用語としてのナカグロ(「・」)が伝わらず、「フランシスナカグロベーコン展」のポスターが出回ったのはもう30年くらい前の話。その時には存在しなかった新たな三幅対など数点を携えて、どうどうたるフランシス・ベーコン展。立派なものでした。

ぼくの頭には「フランシス・ベーコン」の名とともに常に「・」が浮かぶのだが、ベーコンの絵は異形と奇形、偏執と動きの他にも、確かに印象的な「・」が打たれていた。たとえば「自画像のための習作」(1976)などだ。

穴と動き、こそがベーコンだ。今回面白かった試みのひとつは、土方巽の舞踏「疱瘡譚」とそれにまつわる舞踏譜(そんなのがあるのだね)や、ペーター・ヴェルツ/ウィリアム・フォーサイスによる映像インスタレーション「重訳/絶筆、未完の肖像(フランシス・ベーコン)/人物像を描き込む人物像(テイク2)」などが展示されていたこと。

ベーコンの描線を表現するには、あのように動くべきなのだ、と、そういいたくなるのもわかる。

人がたくさんいた。火曜の昼だというのに。

所蔵展では、ジャクソン・ポロックの時には展示されていなかった(と思う)アンリ・ルソーやブラックが出ていた。ルソーの「第22回アンデパンダン展」は近代美術館の宝だ。

2013年5月18日土曜日

そして間文化性ということを考える


ひとつ仕事を終えてから、本を買い、シャツを買い、そして行ってきた:

ウンプテンプ・カンパニー第13回公演『メメント・モリ――長すぎる髪をもつ少女の伝説――』台本・演出:長谷トオル、音楽:神田晋一郎、美術:荒田良

これはガルシア=マルケス『愛その他の悪霊について』(1994 邦訳、旦敬介訳、新潮社、1996 / 2007)を脚色したもの。

12歳の少女、シエルバ・マリーアがある日、狂犬に噛まれ、修道院に収容される話だ。狂犬病か悪魔憑きか、その彼女に対応すべく遣わされてきた修道士カエターノが恋に落ちる。とても簡単にまとめるならば、そんな恋の話だ。

が、それだけではない。それだけですむはずがないじゃないか。

とりわけ原作『愛その他の悪霊について』で印象的な要素は音楽と、そして、異なる論理(とでも言えばいいのか?)の存在だ。

シエルバ・マリーアの父、カサルドゥエロ侯爵の家の隣には精神病院があり、そこからしょっちゅう音楽が流れてくるのだ。しかるに、これを脚色した『メメント・モリ』は音楽劇だ。今回も神田晋一郎の音楽と生演奏つきで、役者たちは歌を歌った。スチール・ドラム風の打楽器が時折混じるピアノの演奏と、それに合わせた歌が、時にコミカルなリズムを与えて劇にアクセントをつけていた。劇のフレームの外の音楽がある以上、フレームの中に音を生じさせる必要もない。音楽と物語とのこの関係の差異(フレームの内か外か)が原作小説と脚色した劇との最大の差。

もうひとつの要素。『愛その他の悪霊について』で印象深いのはシエルバ・マリーアが黒人奴隷に育てられ、その世界に親しんでいたということだ。『百年の孤独』のレベーカがスペイン語を話せなかったように、ガルシア=マルケスの小説には何人か、白人クリオーリョの文化とは相容れない世界に育った人物が出てくる。とりわけシエルバ・マリーアは、修道士カエターノのキリスト教的価値観やヨーロッパ的教養、クリオーリョのカサルドゥエロ侯爵の世界観と齟齬をきたして印象に残る人物だ。

――と、そこまでの記憶はなかったのだ、ぼくはこの小説に関して。たぶん。これを脚色した劇『メメント・モリ』こそがぼくにそのことを思い出させたのだ。おそらく。黒人奴隷的世界観がクリオーリョ社会との間に軋轢を引き起こすことを思い出させるこの劇は、登場人物の多くを独白によるナレーターとしても起用し、多数の声をも響かせ、多数の他者の共存と拮抗をあぶり出して面白い。

ちょうどその前に行っていた仕事というのが、Walter Mignolo, The Idea of Latin America (Blackwell, 2005)などを引きながら、ラテンアメリカ主義的な解釈からカルペンティエールやガルシア=マルケスを解放し、たとえばアフロカリビアン文化との観点から読み直すことが必要だ、と説くための準備だったので、同時性に軽い興奮を覚えながら見ていたというわけ。

2013年5月6日月曜日

行き交う人と連鎖する文化


今日も光を捉えてきたぜ。今日は石神井公園ではなく、善福寺公園。

青木深『めぐりあうものたちの群像:戦後日本の米軍基地と音楽1945-1958』(大月書店、2013)

をめくっていたら、アメリコ・パレーデスが進駐軍の通信隊員記者として来日し、そこで出会った日系ウルグアイ人女性と結婚したこと、メキシコの「ジプシーの嘆き」が日本語で歌われていることに驚いたことなどが紹介されていて、軽い興奮を覚えた。Ramón Saldívarのパレーデス研究などによるところも大きいのだろうが、このパートの前に挿入された思い出話によると、青木は偶然サンディエゴの博物館で見たコリード展とそこにあったパレーデスの『ピストルを手に携えて』(1958)を見つけ出し、これと進駐軍のリストにあったパレーデスなる人物とのかかわりを探る気になったらしい。この本は一橋に出された博士論文が基になっているというから、マイク・モラスキーの指導を受けた人なのだろう、青木さんは。面白い。

実に興味深い。あのアメリコ・パレーデスが日本に来ていたなんて。

「グレゴリオ・コルテスのコリード」と呼ばれる民衆詩(コリード)群を研究して、テキサスの国境警備隊(テキサス・レンジャー)の横暴への恐怖と反感とを読み取り、チカーノ(メキシコ系アメリカ人)研究の一大メルクマールとなった『ピストルを手に携えて』With His Pistol in His Hand はこの分野の古典だ。副題を A Border Ballad and Its Hero という。英語の文脈にとってわかりやすく、border balladとしているが、それが、コリード。そしてまたballadとするに格好なことだが、これは中世スペインで叙事詩が断片化して生まれた民衆詩ロマンセromance(だから、まさに、バラードなのだが)の新大陸版変種のひとつなのだということだ。パレーデスの研究はそうした歴史的展開をも含むものだった。ロマンセが境界地域の緊張を背景に産出されたように、コリードも境界地帯の緊張を背景に持つ。「グレゴリオ・コルテスのコリード」とはそうしたものだ、と。

『ピストルを手に携えて』にはそのコリードの歌い方をも書かれていた。胸を張って顔を大きく反らせ、口を大きく開けて高らかに歌うのだ、と。「近頃のパチューコども風ではなく」と。(パチューコというのは、特に1940年代カリフォルニアあたりのチカーノの不良集団のこと。オクタビオ・パスのメキシコ人論『孤独の迷宮』は、この集団のメンタリティの分析から始まっている)

ぼくは以前、ルイス・バルデス『ズート・スーツ』の少なくとも映画版(1981)の狂言回し「パチューコ」(エドワード・ジェイムズ・オルモス)の姿勢が、この記述に端を発するのではないかとの予想を話したことがある。授業でも一度か二度、扱っているはずだ。バルデスがこの原作戯曲(1978)を仕上げるためにコリードの研究などをしたことは知られている話なのだし、と。

バルデスの戯曲=映画の舞台となったのは1940年代のカリフォルニア。1941年、実際の冤罪事件が基になっている。日米開戦の年だ。当時流行っていたズート・スーツは特にチカーノたちの専売特許というわけでもないが(たとえばキャブ・キャロウェイのような黒人も着た)、このチカーノ、特にパチューコたちのファッションは、メキシコのカウンター・カルチャーの走りともなった。とホセ・アグスティンは書いている。

ズート・スーツというのは、幅広で裾だけぎゅっと締まったボトムズにダブダブで長い上着のスーツのこと。この上下をボンタンに特攻服と読み替え、「ヤンキー」ファッションと称したのは30数年後の日本の不良(パチューコ)たちだった。彼らは「ローライダー」よろしく「シャコタン」にした車に乗っていたっけ……

連鎖するのだね、文化は。

2013年5月5日日曜日

人はコーヒーのためにのみ生きるのではない


ちょっと前にアントニオ・ロペス展などに行ったせいか、石神井公園に散歩に行っても、水面の光を捉えたくなってしまう。

なんちゃって。

スターバックスに「ミディアム・ロースト」を名乗る豆が売っていた。250グラムで。

常々言っているように、ぼくは深煎りの豆というのが嫌いだ。ある種の豆の酸味を消し、苦みだけを際立たせるからだ。エスプレッソだって深煎りではない豆で淹れた方が美味しい。エスプレッソを深煎りにするのは、輸送に時間がかかっていた時代に、鮮度をごまかすために採った方策にすぎない。それだけのことなのだ。

で、「アメリカン」などと揶揄されるほど薄いコーヒーを飲んでいた人々が、イタリア式のエスプレッソに出会って驚き、濃さと深さを取り違え、その真似をして、しかしその実、そこから展開したバリエーション(フラペチーノだなんたらだ、など……けっ! 邪道だぜ)でポピュラリティーを獲得した、といった態のスターバックスなど、片腹痛い存在なのだった。

……ま、たまには使うけどね。

でもまあ、そのスターバックスの所業だ。もっと疑ってかかるべきだった。おお、そうか、ミディアム・ローストか。中煎りか。コロンビアがあるではないか。買ってみよう。と買ってしまったのだ。

やれやれ。しかしこれは、もう立派な深煎りだと思うな。そんな代物だった。コロンビアをこんなに深く煎っちゃいけない。台無しだ。

とはいえ、縮小経済を生きる身だ。そう簡単には捨てられない。悩ましい話だ。

2013年5月4日土曜日

30年後の続編


ご恵贈いただいた。

増谷英樹、富永智津子、清水透『21世紀歴史学の創造⑥ オルタナティヴの歴史学』(有志舎、2013)

3人の著者が薄めの著作ぐらいの長さの論文を書き、それにこのシリーズ(「21世紀歴史学の創造」)の主体だろうか? 研究会「戦後派第一世代の歴史研究者は21世紀に何をなすべきか」のメンバーと思われる人々による座談会が付された一巻。

第3部の執筆者・清水透さんからいただいたのだ。さっそく、彼の書いた:「砂漠を越えたマヤの民――揺らぐコロニアル・フロンティア」(pp.201-290)を。

リカルド・ポサスの古典的民族誌『フアン・ペレス・ホローテ』の翻訳とそこで語られていたマヤ先住民フアンの息子ロレンソへの聞き語りをまとめ、ふたつをひとつにして『コーラを聖なる水に変えた人々』(現代企画室、1984)として出したのが、ぼくが大学1年生だったころの清水先生だ。ぼくはその本を読み、サークルのガリ版刷りの機関誌に書評を書いた。そんな思い出話を、そういえば、最近、東京外国語大学出版会のPR誌『ピエリア』に書いたのだった。今回の論文(本人の呼び方にしたがって「作品」と言おう)は、その『コーラ』の続編とも呼ぶべきものだ。ロレンソの孫フアニートの話なのだから(フアニートの父、ロレンソの息子は早く死んだ)。

フアニートが、村の役職を不当と感じ、加えてある詐欺まがいの出資話で借金を背負い、仕方なしに、ポジェーロと呼ばれるブローカーを介してアメリカ合衆国に不法入国、ニューヨークのスタテン島で親戚を頼って仕事を得、家族に送金するという話だ。国境を越えてから行方がわからなくなったフアニートを探す話から始まり、行方を突き止めた後に何度か通って彼の話を聞き、そしてまた彼の義理の弟ロセンドや従兄弟の友人アグスティンら、三様の不法移民労働の話を聞き(ロセンドはアトランタ、アグスティンはタンパ、とそれぞれ働きに行った場所が異なる。そしてまた2人は、既に故郷に戻っている)、彼らの経験を再構成しつつ、その間のメキシコや合衆国の社会の変化を見直してもいる。

フアン・ペレス・ホローテや息子のロレンソの村は、メキシコ南部チアパス州のチャムーラというところだ。清水氏はそこにもう30年以上、毎年のように出かけて行ってはフィールドワークをしている。聞き取り調査を基礎にして、先住民村落から歴史を捉え返すという試みをしてきた人だ。『コーラ』の後には、プロテスタントの導入などによる村落の変化をたどった『エル・チチョンの怒り』(東京大学出版会、1988)などを出している。これがチャムーラの姿に関する『コーラ』の続編だったとするなら、今回の「砂漠を越えたマヤの民」は、ペレス家の一家の物語という意味での続編だ。ソノラ砂漠を越えて苦労して合衆国に職を見出すフアニートやロセンドの語りは、キャリー・ジョージ・フクナガ『闇の列車、光の旅』(アメリカ、メキシコ、2009)などの映画やホルヘ・フランコ『パライソ・トラベル』田村さと子訳(河出書房新社、2012)(国は違うけれども)らの物語を想起させる。巻末の討論で南塚信吾に「ノンフィクションの私小説」(348)と規定される語りの選択の妙味だ。

もちろん、こうした不法移民労働が問題になるのは、言うところのグローバリゼーションとの関係もある。実際、チアパス州は、『エル・チチョンの怒り』の少し後から、サパティスタの蜂起によって一気にグローバル化とそれに対抗する勢力のフロンティアとして前景化された場所だ。グローバル化をもたらした新自由主義経済は社会変化の大きな要因のひとつだ。「新自由主義による農業の破綻は、村人から出稼ぎ先を奪い、食料を奪い、生存維持をも危うくする深刻な事態をもたらした」(218)のだ。

植民地主義が先住民村落にもたらしたものは、カトリックの教会を基盤とする統治システムであり、植民地期には、支配される側の世界観に、うまい具合にもうひとつの権威としての王の存在を組み込んだ。独立によってその王が共和国大統領に取って代わったものの、基本的には同じ構造が維持される。1910年からのメキシコ革命でも変わらない。こうした植民地の遺制ともいいうる社会構造とそれがもたらす人々の意識が、「液状化」し、人の流動が激しくなったのが新自由主義以後の社会変化の結果なのだという。人々の共同体に対する認識が変わっていくのだ。

グローバル化がもたらす痛みや貧困、悲惨、新興勢力(ここでは、ポジェーロ)の成金化、などを描きつつ、しかし、変化する共同体に対するインタビュー対象の意識を捉え、「『五百年』にわたる植民地性から解放されつつある彼らには、自己再編の新たな道がようやく開かれはじめたといえるのである」(287)と結ぶ清水さんの希望には、確かに「オルタナティヴの歴史学」を模索する者の意気込みが感じられる。悲惨をもたらすグローバル化は、うまくすれば植民地主義からの解放かもしれない。

2013年5月1日水曜日

写真はデフォルメする


大学でいくつか仕事を仕上げ、行ってきた。


もちろん、ビクトル・エリセ『マルメロの陽光』(1992)でマルメロを描いていた、あの画家のことだ。「グラン・ビア」という、文字どおりマドリードの目抜き通りグラン・ビーアを描いた絵などで知られる(ザ・ミュージアムのページにはこの絵が掲載されている)。エリセは来日時、ロペスが(ジャスパー・ジョーンズらの)スーパー・リアリズムと比較されるのだなどといっていた。いかにも、実に写真を切り取ったようなリアルな筆致で有名。入場券になった「マリアの肖像」にしても、「グラン・ビア」にしても、写真かと見まがうほどだ。

が、ぼくはそれと意識してロペスの絵を見るのは初めてだと思うが(長崎県美術館に行ったときには「フランシスコ・カレテロ」は展示されていなかったと思う)、何と言うのだろう、特にマドリードを描いた一連の大きな絵など、息を呑むほどに写真的なのだが、近づいてみると、紛うかたなき油絵の筆致。なんだかその質感というか手触りというか、それがはぐらかされるのだ。

たぶん、このマジックこそがロペスの面白み。今回の展示品では「死んだ犬」(1963)や「眠る女(夢)」(1963)、奇しくもぼくが生まれた年に描かれたこの2点に集約される、不思議な現実感覚が驚きだ。

私が実際のモデルを前にしているとき、もし私が何かを描かなくてはならなくて、その写真を与えられたとしたら、そのプロポーションを写すのに、私は三〇分で済ませてしまうでしょう。私にとって最初はとても簡単なのです。私にとって難しいのは、光を当て、大きさを決めることです。まさしくそれは、写真が決して私に与えてくれないものなのです。(略)私が言いたいのは、写真を撮っても、写真はデフォルメするということです。写真はデフォルメします。経験から分かったのです。写真をこうして置くと、物が動き始める。(『アントニオ・ロペス――創造の軌跡』木下亮訳、中央公論新社、2013、144、145)

写真はデフォルメするのだ。絵とは異なる形で現実をデフォルメする。遠近法と光、色彩によってその現実を克服しようとしているロペスは、とても不思議な感覚を見る者にもたらす。