2021年11月28日日曜日

既成の規格からの自由について

昨日は博士論文の審査であった。僕は主査なので司会をし、かつ、これから報告書をまとめなければならない。


TVをアンテナに接続することをやめ、書斎コーナーを小さく区切ることをやめて、生活がだいぶ楽になった。


本当は今の家に越してきたときには遅くとも気づくべきだったのだ。何しろ古い家だから、たとえば電話回線は玄関についている。そこには電源がない。つまり、かつての、黒電話を玄関の下駄箱の上に置くという生活様式に即した配線になっていたのだ。TVのアンテナも寝室に使っている部屋の壁から引かなければならなかった。


僕らはLDKにはダイニングテーブルとソファがなければならないという思いにとらわれすぎている。書斎や仕事部屋には書き物机(テーブルmesaではなく、書き物机/勉強机escritorio)がなければならないと思い込みすぎている。表通りに面したベランダに洗濯物を干さなければならないのだとの思い込み(家の構造が強要してくる思い込み)からは自由になったはずの僕も、これらの思い込みにとらわれていることに気づかなかったのだ。


かつてデリダの書斎を記録映画でみたことがある。ずっしりとしたダイニング・テーブルのような広いテーブルに本をたくさん載せていた。――1


いつだったか、たまたま見ていたあるTV番組で、ある女優(山口智子だったと思う)が自宅のリビングには大きなテーブルがあると言っていた。そこでくつろぐのが好きだと。つまり彼女にとってはくつろぐ場所はソファである必要はない。――2


僕も今よりはるかに広いLDKのある家に住んでいたことがある。あまり大きくないダイニング・テーブルと、ちゃんとしたソファがあった。でも思い返してみると、僕はソファでくつろいでなどいなかった。ダイニング・テーブルに座ることが多かったのだ。――3


リビング・ダイニングの充分でない家にはロータイプ、ソファ・タイプのダイニング・テーブルがお薦めですよ、という売り文句に吊られ、それに類するものを使っていたことがある。悪くはない。本当はそのときに気づくべきだったのだ。要するに僕はソファでくつろぐことができないのだと。――4


ところが、このソファ・タイプのテーブルを手放した時点で、自分が単にそのソファに馴染まなかっただけなのだと気づいてはいなかった。


鎌田浩毅『新版 一生ものの勉強法――理系的「知的生産戦略」のすべて』(ちくま文庫、2020)は、仕事場の机をダイニング・テーブルにしているという。椅子もダイニング・セットの椅子で充分。「リラックスするためのイスと勉強のためのイスは、それぞれ使い分けるべきだと思います」(106)とのこと。


ジェニファー・L・スコット『フランス人は10着しか服を持たない』神崎朗子訳(だいわ文庫、2017)のシックなマダムのリビングには「クッションの並んだ大きなソファもリクライニングチェアもなければ、薄型テレビの巨大スクリーンもなし。その部屋に置かれていたのは、アンティークの4脚のアームチェアだった」(22)。


これだけの前提(1-4)と情報を得ていながら、僕は自分の欲しているものに気づくのが遅かったと臍を噛む次第である。僕が必要としていたのは、1)広いダイニング・テーブル(80cm × 150cmくらい)もちろん、ダイニング用の椅子つき、2)モニターやマックなどを置く作業台(天板の高さは1メートル。下は引き出しなど)、3)くつろぐためのラウンジ・チェアだけなのだった。


で、それに気づいた僕はこんなこと(リンク)こんなこと(リンク)、さらにはこんなこと(リンク)をしたのだった。


結果、今は1)作業用兼ダイニング用のテーブル(75cm × 120cm)可動式天板で、63cm - 130cmくらいまで変わる、2)モニターなどを置いている書き物机(60cm × 110cm)、3) 折りたたみ式の簡易ラウンジ・チェア(その他、折りたたみ式のパイプ椅子やディレクターズ・チェアらがある)、4)キャスター付き、リクライニングもする作業用椅子。今はほとんどリクラインしてリラックスするのに使っている。この4)は、究極的には要らない。以上の体勢は理想とは少しずれるが、次に買い換えるときにでも修正していきたいものである。



MacBookAirは3)か4)のリラックス用の椅子で文字どおりラップトップで使ったり、1)で立ったり座ったりしたりしながら、あるいは2)でモニターに繋ぎながら、と多様に使うことによって気分転換になり、以前より少しだけ仕事がはかどっているような気がする。


頭脳の延長である部屋のあり方、欲望の形、自分のスタイルを見出すというのは、ずいぶんと時間のかかることなのだなあ。

2021年11月22日月曜日

みなさん、どうしてる?

本は個別の生命を持つので、それとのつきあい方も一様ではない。読み方や使い方は一冊ごとに異なる。


それでも大雑把な分類は可能ではあるし、類型化はされることもある。


長篇小説とのつきあいはなかなか難しい。もう何度も挙げている書名だが、アドラー&ドーレン『本を読む本』外山滋比古、槇未知子訳(講談社学術文庫、1997)では「小説は、一気に読むものである」(208)と端的に命じている。「速く読むこと。そして作品に没入して読みふけること」(209)と。


まあ、そうではあるのだが、それでも2日、3日と時間がかかることがある。あるいはもっとかかることがある。長さの問題もあるが、やはり1日で読み終えるのに適したものと、数日、数週間かけても大丈夫なものとがある。『カラマーゾフの兄弟』や『ファウスト』は、僕の場合はだいぶ時間をかけたけれども(1月くらい。しかも、途中、中断をはさんだ)、特に問題はなかった。


日数が必要(もしくは、かけても大丈夫)だと見た場合は、だいたいの目安で、1日に50ページとか100ページとか、あるいはページ数ではなく章数を決めて読み進むことにする。あくまでもだいたいだ。超過してもかまわないし、目標に達しなかったからといって気に病むことはない。


さて、問題は、そのように時間をかけることにして読んだ小説でも、最後はだいたい2日分、3日分を一気に読んでしまうことになるということだ。100ページずつ、今日と明日で読んでしまうつもり、だったのが、一気に200ページ、今日で読み終わり、という感じになるわけだ。


何が言いたいかというと、前回もほのめかした佐藤究『Ank: a mirroring ape』(講談社文庫、2019)を(これも今回は中断があった)あと2、3日かける予定だったのだけど、昨日のうちに読み終わったということ。鏡と言語が問題になる小説で、最後にナルキッソスとエコーの神話を持ち出してきた時には虚を突かれる思いであった。同時に僕はミゲル・アンヘル・アストゥリアスを思い出したりしているのだから、来週への心の準備が整いつつあるということ。


で、話を戻すと、そのようにして、最後は結局一気に読むことになるのは、もちろん、あくまでも1度目の読みの話であって、上のようにコメントしたりそれを広げたりするために/することによって、2度目、3度目の読みをすることになるわけなのだが、中にはそうしないものもある。1度目の読みで終わるものもある。その1度目の読みで、最後だけスパートをかけたとなると、何か濃淡の差、読みの濃度の差がそこに出るのではないかと、常になんだか後ろめたいような気になるのだな。


……でもまあ、気になるようなら2度目を読めばいいというだけのことか? みなさん、どうしてる? どんな時でもペースを守る? 



今日もこうして読んでいる(写真はイメージ)。

2021年11月20日土曜日

記憶の神秘についてもうひとこと

立教ラテンアメリカ研究所のサイトでは講演会情報が更新され、僕らのトークのお知らせが載っている(リンク)


少し前にFacebook上でかつての教え子たちが何やら事前にシェアしていたのだが、昨日、フジテレビ「爆買い☆スター恩返し」という番組で鈴木亮平が学生時代に住んでいた調布と、それからついでに通っていた東京外国語大学である決められた額の買い物を一日でできるかという試みをやっていた。サイコロを振って出た金額は70万円。


鈴木亮平は東京外語大の英語専攻出身で、だから大学近くのアパートに住んでいたという次第。そこで劇団ダダンというサークルのOBである鈴木が、後輩たちに大道具を作るための工具類を買ってプレゼントするというシークエンスがあった。それを観た同期の友人が、そういえばダダンというのは僕らのスペイン語学科(当時)の先輩が立ち上げた団体ではなかったか、とMLで問い質してきた。


はっきりとは覚えていないのだが、ともかく、そういうことが
話題に上ったので、確かめたところTVerで配信していたその番組を僕も観ることになった。


大学のことや劇団のことはともかくとして、気になったのが、ごく最初のころに出て来た一情景。鈴木亮平がここでアルバイトをしていたのだ、と立ち止まったのが、今はなきあるレストランバーが入っていた、調布駅近くの建物。その映像がどこか僕の記憶を刺激した。



そう。そこはかつて僕が外語大で勤めていたころ、教え子たちと一度だけ行ったことのある店なのだった。思い立って過去の写真を見てみたら、外観の写真はなかったけれども、店内のロゴが鈴木亮平が名前を告げていたその店の名と同じだった。写真の情報によれば2011年8月8日、僕はそこに行ったのだ。たった一度だけ行った店をよくぞ思い出したものである。何枚か撮った写真に鈴木亮平は写り込んでいなかったけれども(もう卒業はしていたはず。『HK/変態仮面』で名をあげる前ではある)。20歳を少し過ぎたばかりの若い女性ふたり(あ、つまり、教え子)とまだ40代の僕はしっかり映っていた。そして料理や酒のグラスも。


そんなわけで、同期の友人たちと、Facebookでその番組についての情報を共有していた教え子たちと、そのお店に一緒に行ったふたりの女性(あ、つまり、教え子)たちと、そしてやはり鈴木亮平がその番組内で立ち寄った深大寺そばの店〈湧水〉の思い出を共有する者たちと、昔話に花が咲いている……というのは大袈裟か? 



一番下のBookNoteを10月に使い終え、次のMoleskineを使っているのだが、紙質が変わったのか、万年筆の裏染みが多くなった。以前使ったことのあるMDノートの新書サイズというのがいい感じだと思ったので、次はこれを使ってみたいと思う。一番手前にあるのは福田和也をはじめ、愛用者の多い伊東屋の手帳のリフィル。母の家に行ったときに使ってみたのだが、悪くはないけど、これはさすがに僕には小さすぎる。あくまでも旅行用と考えよう。

2021年11月19日金曜日

情報解禁

先日、類人猿についての小説を読んでいると書いた(リンク)。


それはつまり、佐藤究『Ank: a mirroring ape』(講談社文庫、2019 / 単行本は2017)のことだった。京都にできた民間の霊長類研究所のチンパンジーが引き金となって起こる謎の連続暴動事件の小説だ。面白い。


ことしの初頭、同じ作者の『テスカトリポカ』(KADOKAWA、2021)を読んで書評を書いたことは紹介済み(リンク)。その佐藤さんと、こういう



催しをやるのだ。立教大学ラテンアメリカ研究所(リンク)主催の第51回「現代のラテンアメリカ」講演会。講演というよりは、対談。対談というよりは、インタヴュー、かな? 


前に書いたように、『テスカトリポカ』はメキシコの麻薬カルテルのボスだった人間がインドネシアを経て川崎で闇ビジネスを行うというもの。そのボスの脳裏にすり込まれるアステカの神テスカトリポカの影、そしてそのボスと関係を持つことになるもう一人のメキシコ系の住民、……といった筋立て道具立てがメキシコに関連しているというので、ラテンアメリカ研究所としては、これは話していただくにしくはないと考えたのだろう。僕が話を聞き出す係となったという次第。


他の佐藤作品も読んで、どれも面白いので、僕も楽しみにしているのだ。


ところで、翻訳中の小説にオリヴァー・サックスが出てくるので、昨日はペニー・マーシャル監督『レナードの朝』(1990)を観た。サックスの本をドラマに作り直して映画化したものだ。第一次大戦後に流行した嗜眠性脳炎(ねむり病)とパーキンソン病との共通点に気づいた医者が後者のための新薬Uドーパを投与したところ、多くの患者が一時的に回復したという事例を物語化してロビン・ウィリアムズとロバート・デ・ニーロとで実現したもの(※)。


二次情報に多く触れているし、原作本にも目を通しているので、すっかり観た気になっていたが、初見であった。


映画や本にはそういうことがよくある。二次情報をたくさん得ているため、観た/読んだ気になる。そして時間が経つと忘れることも多いから、実際に観た/読んだものも観た/読んだんだかそうでないのだかわからなくなる。でも案外、映像に触れ、ページを開いた瞬間に、ああこれはたしかに既に知っていると記憶が甦ったりもする。そう考えると、数日前に記した(リンク)、何本観たかという問題はますます特定が難しくなるのだ(そしてもちろん、何冊読んだかという問題も)。


佐藤さんとの対談に際してはコーマック・マッカーシー原作の映画なども再見しておこうかと思う。でもそれはひょっとして初見なのか? 



おととい作った茄子のトルティーヤ(エスパニョーラ)。


(※ 当初、間違えて「パーキンソン病」であるべきところを「アルツハイマー」と書いていた。ご指摘を受け、訂正)

2021年11月15日月曜日

映画に本という単位はない?

昨日は渋谷ストリーム内のチリンギート・エスクリバでパエーリャを食べた。


外語時代の教え子と久しぶりに。


その後、「ネイチャー・アクアリウムの奇跡」という展覧会を見て、しばらく話をしたのだった。教え子は1歳になる子を僕に抱かせたがったので、おそるおそる抱きかかえた。泣かれなくてよかった。


その教え子の夫がスタッフとして関わっているというので、帰宅後、藤井道人『青の帰り道』(2018年)とTVドラマ『ムショぼけ』の最新話を観た。前者はYouTubeで、後者はTVerで。


年に何本くらい映画を観るかと訊ねられた。あまり考えたことがなかった。そのとき思い出したのが、蓮實重彦と武満徹の対談。ともに年に150本ばかりも観ていると言っていた。


僕はもちろん、そんなには観ていない。100本も観ないのではないだろうか? 映画館で観る映画となったらもっとはるかに少ない……


そんなやりとりをしたのだが、たとえば先週は、ジャスティン・ウェブスター『ガボ』エイドリアン・ライン『運命の女』そしてアレハンドロ・ランデス『MONOS』を観たのだった。あ、そうそう。それに、『青の帰り道』。劇場で観たのは『MONOS』のみ。『ガボ』と『運命の女』はいずれもアマゾン・プライムで。家で。配信で。かつ、2回目と3回目か4回目の鑑賞だ。


考えてみたら、1年は52週だから、これだけ観たら年に200本ばかり観ることになる。でも毎週毎週このペースで観るわけではないから、当然そこには到達していないはずだ。とはいえ教え子と話しているときに簡単に見積もったよりは多く観ているかもしれない。再見以上のものをも含めるとすれば、だ。


『運命の女』はもう何度目かだし、最初から最後までモニターの前でじっと鑑賞していたわけではないので、本の再読同様、これを果たして1本観たと言えるのか、はなはだ怪しいものではある。本同様、映画も、1本観るとはどういうことなのか、厳密に考えるとわからないものである(この記事のタイトルは、もちろん、管啓次郎『本は読めないものだから心配するな』の「本に冊という単位はない」という命題から取った)。


このブログで紹介するのは、たいていは劇場で、しかも初めて観る作品がほとんどではあるのだが、なるほど、2回目以降も、そしてもちろなん、配信やDVD、BDでの鑑賞も1本として数えれば、100本200本と観ているのかもしれない。



で、今月既に何度も紹介しているように、僕はTVモニターをアンテナに繋ぐことはやめ、TV番組で観たいものがあれば、こんな風に、場合によっては、iPadミニで観たりしているのだ。配信で。そして映画もそのようにして、が、映画の場合はたいていはこれをTVモニターに映して鑑賞する。TV番組の場合だと映画よりもはるかに多く何かしながら(料理したりその料理を食べたりしながら)観るので、実はiPadで観るのは楽で良い。


今夜はアマゾン・プライムでもうすぐ見放題が終了という作品の中から何かを観ながら夕食でも食べたいと思うものだ。



昨日は昼パエーリャを食べたというのに、今日もパエーリャ。スキレットでひとり分作ったのだ。バレンシアーナ風。日本人にはパエーリャに対するあまり正しいとは言えない固定観念があって、それが、1) パエーリャはシーフードを具にしなければならない、2) パエーリャは(イカスミのものをのぞき)サフランで黄色く色づけしたものでなければならない、というもの。何を言っているのだ!? パエーリャの起源バレンシアーナは肉ふた品、野菜や豆類ふた品というのがスタンダードなのだ。昨日のはシーフードだったし、家で独り用だとエビやムール貝など大きすぎていけない。そこで、本当はウサギが欲しかったのだけど、ないので、鶏+ソーセージ+マッシュルーム+エンドウ豆、トマトで色づけしたパエーリャ・バレンシアーナ風。


2021年11月13日土曜日

猿たち

ある仕事のために類人猿(simio)に関する小説を読んでいるのだが、特にそれとは無関係に猿(mono)たちについての映画を観てきた。シアター・イメージフォーラムだ。


アレハンドロ・ランデス『MONOS 猿と呼ばれし者たち』コロンビア他、2019


コロンビアなのでFARCなどの反政府組織を思わせる民兵軍団(パラミリタル)が政府軍との交渉のために捉えた人質(アメリカ人の学者。博士と呼ばれる。ジュリアンヌ・ニコルソン)を監視する役目を負った8人の少年少女の話。ただ者ではない雰囲気を漂わせる伝令兼訓練係(ウィルソン・サラサール。本当にただ者ではない。元FARCのメンバーだそうだ)の監視下にある狼Lobo(フリアン・ヒラルド 字幕ではウルフ)、犬Perro(パウル・クビーデス 字幕ではドッグ)、大足Pata Grande(モイセス・アリアス 字幕ではビッグフット)、スマーフ(Pitufos、デイビー・ルエダ)、ブンブン(スナイデル・カストロ)、レディLady(カレン・キンテーロ)、ランボーRambó(ソフィア・ブエナベントゥーラ)、スウェーデン女Sueca(ラウラ・カストリヨン 字幕ではスウェーデン)の面々は、伝令に認めてもらえば男女交際も可能なようで、リーダー格の狼とレディはつき合っている(婚姻関係matrimonio が認められている)。人質の監視が任務だから、日常は比較的自由が許されているようで、酒を飲んだりして楽しんでもいるのだが、そのためにある事件が起きる。その事件がきっかけでリーダーの狼が自殺する。直後、政府軍の攻撃を受け、拠点を変えることになる。それまで乾燥したアンデスの山岳地帯にいたのが、一転、密林に隠れることになる。この転換が見事だ。


舞台の転換は人間関係の変化にもなる。観客の(この場合は僕のことだが)感情移入の対象もレディからランボーに移る。狼亡き後、リーダーを務めるのが大足で、レディは彼と関係を持つ。政府軍の攻撃直前の交信で何かを悟ったらしい博士は密林を流れる川を利用して逃亡を図る。猿たちの仲間のひとりであったランボーも逃亡を図る。いくつかの展開を見せるのだが、最後の川を利用してのチェイスは虚を突かれる。


最終的に最も興味深いのはランボーの存在。ソフィア・ブエナベントゥーラが演じる背が高く坊主頭のこの人物の解釈については意見の分かれるところだろう。パンフレット内の文章を寄せた芝山幹郎は「両性具有というよりも、性別に言及する必要を感じさせないのだ」と述べる。同じくパンフ内の文章で星野智幸は「女性が少年を演じたわけだが、この少年は以前は女の子でもあった、と解釈を広げてもよい。私には、ランボーの性は男女という二分法からははみだしてしまう、と考えるほうがしっくりくる」との意見だ。僕はずっと彼女は性同一性に問題を抱えているのだと理解して見ていた。


ランボーは二度、「猿たちの狩り」という遊び/儀式で仲間たちに追い立てられ、鞭代わりのベルトで尻を叩かれたりしている。1度目は15歳の誕生日に、2度目は逃亡を図った罰として。女の子にとって人生の最重要時である15歳の日にこうした仕打ちを受けるのだから、やはりそのマイノリティとしての性をからかわれ、いじめられているのではないだろうか。


エンドロールの最後の最後に「チンガサとサマナ川の保護にご協力を」というようなことが書かれていた。前半と後半のそれぞれ舞台だ。チンガサは国立公園らしい。乾いた山とむせ返る密林。アジトを移動するとき、新しいリーダーの大足が人質の博士に言うせりふが印象的だ。Espero que le guste el calorcito.(暑さが気に入るといいけど)



映画の後はヴィーニョ・ヴェルジで乾杯。

2021年11月8日月曜日

沈み込みたい欲望

訳あって(いや、訳などなくてもいいのだが)ジャスティン・ウェブスター『ガボ』(2015)がアマゾン・プライムで見られるので見た。フアン・ガブリエル・バスケスが主な導き手となってガルシア=マルケスの生涯をざっとたどるドキュメンタリー(ビル・クリントンも出てくる)だ。これを見るのは2度目だが、5年ほど前に最初に見たときにはどう思ったのかわからないけれども、現在の目で気になったこと(といっても、あくまでも傍系の話。ガボの生涯とか、彼の活動、作品などについての評価といったいわば本質的なものではない)がふたつ。いや、みっつ。


1) バスケスは『百年の孤独』の初版本らしきものを持っているようだ。あの、Sudamericana社の、 “soledad” の “e” が鏡像になったやつ。これはもう本格的な研究者の態度ではないか。さすがはパリ大学の博士なのだ。


2) バスケスは映像をノートPCで見ていた。TVモニターのようなものは部屋にはなかった。最近、大きなTVモニターを処分した僕としては、勝手に親近感を覚えるのだった。


そんな勝手な親近感が突き放されるのは、……


3) 作業机の椅子とは別に部屋にはラウンジチェア(腰が沈み込み、少しのけぞる感じになれるやつ)のようなものがあって、映像を見るときにはそこでくつろいで見ていた。


ああいうのが欲しいと常々思っているのである。要するに、隣の芝生は青く見えるというやつで、バスケスの仕事場、うらやましいな、と思ったというわけだ。


それで、ともかく、椅子。理想はル・コルビュジエのシェーズ・ロングだ。寝そべる格好でくつろげる長椅子。が、それは置き場がないだろうと思う。以前にも同様の写真を上げたことはあると思うが、こんなふうに



椅子を倒してそれに近い体勢を作れるようにしてはいるのだが、これは作業用の椅子でもあるので、背中を立てたり倒したりが忙しなくていけない。


だからバスケスが使っていたようなラウンジチェアで、手ごろな大きさのがないかな、と思うのである。



スノードーム。(という名前をさっきInstagramで教えていただいたばかりなのだが)


11月13日の追記:


とりあえずいいのが見つかるまでの移行措置として、こんなのを置いてみた。



無印良品の店で見つけた折りたたみの椅子。角度がちょうどいい具合に腰が沈み込む。



こんなふうにクッションをしいて補強。


あくまでも折りたたみの臨時の椅子だが、どうせ1日の大半は他の椅子に座ったり立ったりして机仕事をしているのだ、たまに座るくらいなら問題ないだろう。しばらくはこの体勢でいこう。

2021年11月3日水曜日

経過報告

今日は文化の日、などとごまかした名がついているが、日本国憲法が公布された日だ。どこかのヤクザみたいな市長が、自分の市の住民投票で負けた、まさかその仇を取ろうというわけではあるまいが、国民投票が……などと言いだした。剣呑である。僕は日本国憲法には国民の規定がないので、その部分は変えるべきだとは思うが、それは今ではない。少なくとも今、改憲を主張している連中が持って行きたがっているような方向(天皇主権、基本的人権の放棄)への改変は絶対にあってはならないと思う。


日本国憲法に国民の規定がないなと思ったのは、メキシコ合衆国憲法にはそれがあるから。そんなことを思ったのは Jordi Soler, La última hora del último día (RBA, 2007)がそれをめぐるものだからだ。この小説は Los rojos del ultramar および La fiesta del oso La guerra perdida (負け戦)三部作をなすものだ。この三部作話を少し書こうと思っているので、憲法の国民規定が気になるところ。


ソレールの『負け戦』三部作はスペイン内戦で共和国派だったためにメキシコに亡命してきた祖父Arcadiに始まるソレール家のその後の顛末をたどったオートフィクションだ。第二作のこの『最後の日の最後の時間』はメキシコにやって来てコーヒープランテーションを起こしたソレール家の亡命先で生まれた最初の子マリアンナ(ジョルディの叔母)をめぐる話。家族の心配事のひとつが、憲法30条に書かれた「国民」の条項というわけ。


さて、TV受像機でTVを見ることを止めて10日ばかりが経った。もとからたまにしか見なかった身としては、特に不都合は起こっていない。いや、むしろ、ある種喜ばしい心境の変化があった。つまり、TVerらの配信番組表を見ても、以前ならば暇な時間に見たこともあったような番組をわざわざ見る気にはなれないということだ。この番組は確かに見たことがあるが、なぜこれを面白いと思って見る気になれたのだろう、と不思議に思う。結果、以前ならば10日もあれば2-3番組は無計画に、その予定もなかったのに見ていたとしてもおかしくはないのだが、それがゼロになった。その代わり、以前の記事に載せたようにYouTubeで小三治の落語などを聞いたりしていたという次第。なんだか大人になった気分。



……でも、だからといって、仕事がすいすいはかどっているわけではない。相変わらずの切迫感に追い立てられている。不思議だ。なぜだろう?